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『榛名湖滞在記』を書き終えて


 群馬での滞在制作を終えて、自分の作業場に帰ってきてから、ほとんどとり憑かれたみたいに『榛名湖滞在記』を書いていた。

 全体で12,000字、原稿用紙にして30枚分を手書きでしあげた。

 滞在期間中はインプットの量がひじょうに多いうえに、インプットした情報を整理するための時間も十分に確保できていなかったので、帰ってきてからの数日間、この滞在記を書くという行為は自分にとって、情報整理のための重要な時間だった。まずこれを書かないことには芝居の台本『たまたま in Harunako』は書けないだろうと感じていた。



 その間にいくつかのツイート(ポスト)を見て、考えごとをした。ひとつ目は、演出卓(稽古場で演出家が作業をするための机)が演出家によるハラスメントを助長しているのではないか、という意見だった。確かに、演出卓を演出家の「特権」として考えるような演出家に対しては言い得て妙だが、しかし、すべての道具は使用されることで意味を持つのであって、それ自体が善/悪であるということはない。使用する人間の善意/悪意によって、道具の善し悪しは変わる。そして、思うのだけど、そのような悪意を持った人間はべつに「その道具(ここでは演出卓を指しているが)」がなくても別の道具を使用して、他者の尊厳を侵害するだろう。

 ふたつ目は、芝居の台本に参考文献を記す劇作家は誠実だ、という旨のものだった。直近の二作、『斗起夫』と『太陽と鉄と毛抜』は自分で書いた小説が、参考文献であり、これから書こうとしている『たまたま in Harunako』は、協力してくださったインタビュイーとインタビュアーの皆さんの語りと、『榛名湖滞在記』が参考資料だ、とここに書き記しておく。

 滞在記の終わりは唐突に訪れた。僕は、全体の構成をあらかじめ考えてから、ものを書くタイプの作家ではないから自分でもこの滞在記が、いつになれば書き終えたことになるのか、見当もつかないまま筆を進めていた。芝居の台本の場合、上演時間を鑑みて、だいたいこれくらいのページ数で、かたをつけようとか、そういう算段もなくはないのだけれど、小説(やエッセー)だと、向きあっているあいだは延々と書くべきことがまだ残っているような感じがして、徐々に「書いている」というより「書かされる」感覚になってくる。

「書いている」よりも「書かされる」ほうが楽で、このとき僕はひたすらにペンを振るい、湧き上がってくる想念を、言葉に変換して書き遺しているだけで、あまり頭脳をつかっているという気持ちはしない。だが、ひと通り書き終えると、ずしりと疲れる。もちろん、「書いている」ときと較べたらまったく疲れていないのだが。

「書いている」、けど書けないときに積もる疲れは徒労感。空しい疲れ。

「書かされる」ときの疲れは達成感。清々しさがある。気持ちよく酒が飲める。


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