脱-note記事
noteは連載に不向きだ、と誰かが書いていました。
たしかにその通りだ。note記事は(これは僕の経験知に過ぎないのだけれど)短過ぎても好まれづらいし、長過ぎても好まれづらい。
字数にしておおよそ2,000字くらい。じぶんの記事が多くの人の目に触れるようにするためには、図や写真をまじえながら、まとまりのある文章を書く必要があるように思う。
なにをもって「まとまりのある文章」と呼ぶのか。
それは、よく言われていることではあるけれど、伝えたいことが明確で、そして、誰かにみられることを念頭に創作されている記事。
僕も一時期はそういうものを書いてみようとしたことがありました。
でも性にあわないのですぐにやめてしまった。
それにいつも読んでくださっている皆さまの反応をみているかぎり、じぶんがやるべき仕事はそういうものではない。
多くの人々をカヴァーするように書くのではなく、誰かひとりのために書く。
それこそが僕の役割であり、求められている仕事なのだと思い知りました。
まとまりのない文章が好きだ。
いや、文章だけではない。まとまりのない創作物が、思考が、愛おしくてたまらない。
他人のメモをみたくてたまらない。
文章のかたちになっていなくて良い。箇条書きで良い。なんなら単語だけが乱雑に書き並べられた手書きのメモ用紙を眺めて目の保養にしたい。
その筆跡から、文字の一画一画、止め・跳ねから、さまざまなものを感じとり空想に耽っていたい。
皆、無理やりに文章のかたちにしようとし過ぎている。
言葉で、すべてが伝わりきるわけがない。
ならば、いっそのこと、開き直って、言葉をおもちゃにして遊べば良いのに。
もっと詩的なものを、追求すれば良いのに。
誰かに伝えるために、誰かからの共感を得るために、書くのではなくて、じぶんの思考を掘り下げるためだけに書けば良いのに(いや、いや、書く楽しさは十人十色。だから、べつに伝えるために書いても良いのです。ただ、言葉や表現は、おそろしいほどに、伝染るものです。長年連れ添った相手と、気づけばよく似た言葉づかいになっているみたいに。僕たちは互いに影響を与え、受けながら生活しています。だからこそ、じぶんの核を崩すことなく創作しつづけるためには、ときにパブリックに宣言しなくてはならないこともある)。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。