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短期的な計画をいくつも立てていって、それらを同時並行的にこなしていく


東京スカイツリーのふもとにある店舗で働いた翌日は板橋の自分の店で働いて。その翌日は稽古。こんなふうに、毎日違う場所へ行って、違う人と会っていると、毎日が充実して、楽しい。「生きてるな!」って感じがしてくる。

ある時点まで「いつ死んでも悔いはない」と思って生きてきたのだけど、いつからだろう、「まだ死にたくないな」と思うようになったのは。



毎日同じ場所に同じ時間に行って、同じ時間に家に帰ってくる。同じ時間に眠り、同じ時間に起きることに面白みを感じない。それよりは、毎日違う場所に違う時間に訪れて、違う時間に家に帰って(家に帰ってこなくてもいい!)、違うベッドで眠って、違う会って食事をする。そんな暮らしかたのほうがよっぽど面白いと思う。

面白い人生を生きたいなと思う。毎日が繰り返しで、面白みに欠けていたら「いつ死んでもいいや」と思ってしまうのかもしれない。確かに、僕がそんなふうに思っていた時期は、繰り返しの日々の連続だった。ろくに外にも出ないで(人とも会わないで)本を読んで文章を書いて、恋人とだけ喋って眠って、また起きる——そんな日々の連続だった。今は、そんな過去とは見違えるようにいろいろな人と会い、喋っている。話を聞いている。よく笑っている。

ストレスの源泉はいつだって対人関係だ。うまくいかないこともある。だけれども、「不快」がないところには「快」もない。



はっきり言ってストレスを感じることもある。けれど、それもこみこみでコミュニケーションなのだ(と僕は大学4年生のときに書いた芝居の台本に書いていた)。

家にはVRのヘッドセットがある。そして音質のいいヘッドフォンをつければ目の前には仮想空間が瞬く間に広がる。そこには「不快」はない。「快」だけがある。だから危険だと思う。危険だと直感していつもヘッドセットをはずす。仮想空間に長居しすぎたら、現実世界に戻ってこられなくなりそうな気がして、こわいのだ。

仮想空間に長居しすぎると、現実世界に魅力を感じられないようになると思う。しかし、そのうちにVR/AR技術がより身近なものになっていけば、人々は当たり前のように仮想空間で生活し始めるだろう。Appleはこのような未来を見越して、満を持してビジョンプロを発表したのだろう。



今、テクノロジーの力によって、世の中が急激に変化しようとしているのを感じる。ChatGPTの登場して、今や誰もがその気にさえなれば簡単にAIを利用できる時代になってしまった。テクノロジーによって変革されていく都市社会で生き抜くにはどうしたらいいだろう?——変革された社会で小説は意味を持つのか。演劇の役割とはなんだろうか。自分なりの考えに基づいて行動をしているつもりではある。

これからのたった数年間で世の中は一変していくだろう。いや、それどころか、二変、、三変、、もしていくだろう。 これまで「常識」だったものが「かつての常識」になって、これまでの「非常識」が「常識」になっていく。そんなふうにうつり変わりの激しい時代に長期的な計画はほとんど意味を持たないと思っている。だから、僕は、計画的にじょうずに生きることよりも面白く生きたいな、って思う。なんなら明日死んでしまうかもわからないのだから。極論かもしれないけれど、明日大地震がきて富士山が噴火してしまう可能性はあるし、太陽フレアがデジタルデータがきれいさっぱり消し去って世界中が大混乱に陥る可能性だってなくはない。なにが起こるかはわからない。新型コロナウイルスだって予想だにしていなかったじゃない。そして、新型コロナによって私たちの生活様式はだいぶ変わってしまったじゃない(これまで「常識」だったものが「かつての常識」になって、これまでの「非常識」が「常識」になっていく)。



とは言いつつも計画をまったく立てないわけではありません。中長期的な計画にはあまり意味がないのではないか……と考えているというだけのことです。それよりかは、短期的な計画をいくつも立てていって、それらを同時並行的にこなしていくほうが、時代のスピード感に合っているのではないかと考えるのです。短期的な計画の「結果」を参考にして、次の短期的な計画を立てていく、というやりかたです。こんなふうに、小回りのきくやりかたで計画を運用していくのが最適なんじゃないかと今の僕は考えています。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。