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僕はジョルジュ・ブラックから小説の書き方を教わった


平日の真昼だというのに、展覧会は混雑している。やはりピカソは人気だ。

ピカソの絵をすごいとは思う。けれど、好きかどうかと問われると首肯し難い。

一見すると、ジョルジュ・ブラックは、パブロ・ピカソと同じようなことをしていたように見て取ることができるのかもしれない。しかし、それぞれの画業全体に着目すると、2人は別のしかたで〈キュビズム〉をしていたのだということがわかる。

ブラックの絵は、ピカソのそれよりも、質量が大きい。

と感じる。それはたんなる色遣いの問題ではない。ピカソよりもブラックのほうが暗めの色を多用しているから質量を感じるとか、厚塗りしているから質量を感じるとか、そんな単純なことではなく、もっと複合的な——つまり、「その1枚の絵にかける思い」のことを言いたい。

「その1枚の絵にかける思い」が、色遣いを変え、筆遣いを変え、質量を大きくする。洒落っぽいが、「思い」のぶんだけ作品は「重い」ものになる。


僕が、ジョルジュ・ブラックの作品を初めて見たのは、2019年、秋の深まる頃だった。

「読んでみるといい」と友人に奨められた現代アートの解説書を読み進めていた。キュビズムを取り扱う章で、ブラックは、まるでピカソの影であるかのように紹介された。

ブラックの絵にはふしぎな力がある。まさしく影の力。節くれ立った、一本気な職人っぽい絵が好きだった。

僕はインターネットですぐさま画集を注文し、日が沈み、夜になるとそのページを繰った。本を紹介してくれた友人に連絡をとる。ジョルジュ・ブラックの素晴らしさについてを語る。すると、友人はジョルジュ・ブラックに関する文献をまとめて僕に送ってくれた。僕はそれを読みこんだ。

ブラックに関する文献はそれほど多いわけではなかった。ピカソを解説する際にブラックを軽く経由する、という類のものがほとんどだった。

やはり影の人なのだ。

僕は文献に書かれている内容と、画集を見て感じ取ったことを文章にまとめ始めた。ジョルジュ・ブラックに関する少な過ぎる情報。情報と情報のあいだにはいつも大きな空白が、ぽっかりと口をあけていた。

情報をきちんと並べ、まとめていくと、「空白」は次第に「余白」になっていった。僕はその余白にマルジナリア書きこみをしていった。

——この間にはこんなことが起こっていたんじゃないかと思われる。

というふうに。マルジナリアが増えていくほど、文末が「思われる」で溢れ返っていく。机の上に溜まった消しゴムのカスを捨てるみたいに、「思われる」を削除していった。すると、実際にブラックの身に起こったとされる出来事と、僕の空想中でブラックの身に起こった出来事との区別がつかないようになった。

もしかすると、それはおそろしいことであるのかもしれない。

けれど僕はそのとき強い興奮を覚えていた。こんなことができてしまうのかと。いたずらに手を染めた少年少女のような胸騒ぎ。中学生のときに、同級生の家に勝手に忍びこんだ。そいつの家は大抵便所の小窓が開け放しになっていた。そこに頭からつっこんでいって、和式便器の上で受け身をとる。玄関の鍵を開ける。僕の仲間がぞろぞろと入ってくる。……


小説の書きかたにはいろいろなものがある。僕は小説を書くことに憧れていた。でも書くことができなかった。正確に言えば、書ききることができなかった。ある程度の文量を書くといつも、物語をつむいでいくための嘘を自分で背負いきれなくなってしまう。それで書き続けることを放棄する、というのが常だった。

しかし、僕は画期的なことを発見したのかもしれない。僕が嘘を背負いきれなくなるのは、嘘に嘘を重ねるからだ。なら、事実と嘘を交互に重ねていけば、すべてを自分ひとりで背負う必要はない。


残念なことに、発見は発見のまま終わった。この発見が実際の創作で活かされるようになるのはそれから3年後、2022年のことだ。

3年もかかった。変わろうとすればすぐにでも変われたような気がする。だからこそ、変わってしまうことに抵抗があった。このまま変わってしまっていいのだろうか、という不安があった。いったん変わってしまったあとで、変化前の状態に再び戻ることは不可能だからだ。どんなに願ってもどんなに努力してもそれは叶わない。僕はそれを何度も経験してきたことがあるから、よくわかるのだ。

「筆力が一定以上に達すると戯曲家は戯曲に満足しないようになってくる」

そんな言葉を聞いたことがある。そしてその言葉は確かだと思った。自分が戯曲(脚本)ではなく、詩を書いていること、小説を書こうとしていることはその予兆であるのかもしれない。小説を書くことに憧れていた頃の僕には、小説を書くことができないから演劇をつくっている、という実感があった。自分が書ききれない不完全な部分が、俳優やスタッフの創造性で補強されて1つの演劇作品になっているという確かな手応えがあった。けれど、小説を一応書けるようになった僕は——以前よりもはるかにさまざまな出来事を文章によって描写できるようになった僕は——俳優やスタッフに小説中の描写を忠実に再現していただくことを願っているのだ、ということに気づいた。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。