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日曜日の煮魚

日曜日の夜、久しぶりに煮魚を作りました。

赤魚の切り身が安くなっていたのと、
手の込んだものを作るような
気力もなかったので(日曜日だしね)

ちびまる子ちゃんを見ながら
フライパンに水と醤油、みりん、酒にショウガと蜂蜜を少々。
途中で味が薄いかな、と醤油を少し足しただけの簡単なものです。

くつくつと煮立たったフライパンに魚を入れると、
切り込みを入れるのを省略したからか
熱を通した赤魚はくるっとロール状になってしまいました。

いちおう体裁は整えよう…と菜箸で格闘。
なんとか曲った身を切って落ち着きました。
わりと大きな身だったので、
最初からこの形でした、みたいな姿になってくれたのでまあ…(良いでしょう)。

味は普通においしくできたと思います。普通に。
その夜は仕事で遅くなる夫の分を残し、
最近つけ始めた日記に「煮魚には切り込みをいれる」とだけ書き、
そのまま寝ました。

すると翌朝、
起きてきた夫が「昨日の煮魚おいしかったよー」と言ってくれました。

一晩明けてからわざわざコメントを出すこともないので
本当においしいと思ったのでしょう。

もちろん、作り手として嬉しい気持ちはあったけど、
手の込んだ料理よりもこういう料理の方が喜ばれるものなんだなあとぼんやりおもいました。

煮魚といえば思い出すのは祖母のこと。

90近い祖母は90歳を超えた祖父と、
伯父とその息子つまり従兄弟との4人暮らし。

田舎の、山奥の崖の上に住んでいます。
かろうじてガードレールのある、断崖絶壁です。(途中の道にはガードレールすらない)

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家の前です。山しかみえない。

この前、会いに行った時は
料理を作るのもなかなか大変そうで
祖母・母・わたしで一緒に台所に立ちました。

何だったかは忘れてしまったけれど
従兄が市場で買ってきた頭と内臓が抜かれた小さめの魚たちが
用意されており、
それを煮魚にしようという話になりました。

「煮魚はばあちゃんに作らせた方が絶対美味しい」
という母の言葉で祖母がつくることに。

祖母はゆっくりとした手つきで
深めの鍋に、
地元の醤油と酒を合わせて、
砂糖をどばどばと入れていました。

沸騰したその中に重なり合うように積み込まれた魚たちは
一気にほろほろ崩れていきます。明らかに入れすぎでした。

「もっと浅い鍋で作ったらよかったねえ。」

ぽつりとつぶやいた
年老いて、体も頭もゆっくりと鈍くなっている祖母。

形はぼろぼろになったけれど、
味は確かに美味しくて。
あんなに砂糖を入れたのになぜか丁度良く
みんなで「おいしいねえ」と食べました。

すっかり食が細くなった祖父もそれだけはうれしそうにほおばり、
「やっぱりばあちゃんの煮魚がいちばんうまい」
「ばあちゃんのような嫁さんになるのが一番じゃ」

と、わたしとその時初めて連れてきた夫(その時は彼氏)に
何度も何度も言っていました。
祖父がこんなにも祖母のことを誇らしげに話すのを聞くのは、初めてのことでした。

当時はまだ結婚の話は出ておらず、
「まあいずれは…」というような微妙な時期だったのですが、
祖父は孫が結婚の挨拶に来たと理解していたようです。

そのとき祖母は、自らの煮魚の出来に少し不満げな様子で。
それでも褒められたことに対して少し照れ笑いも浮かべていました。

料理は愛だというのなら、

その愛は作り手だけのものではないのかもしれません。

たとえ作り手が不満足に思う出来でも、
食べた人が愛を持って食べれば
それはとても特別な味に感じるのかも。

おばあちゃんには他にも
得意料理がたくさんあって、
今まで腕によりをかけて作ってきた自信作は
たくさんあるんだろうけど、

自分の中の1位が相手にとっての1位になるとは限らなくて。
そこのズレも、「まあそれでいいならいいよ」と
何十年も許容してきたのだろうと思います。

おじいちゃんとおばあちゃんのように
70年以上一緒にいるかは分からないけれど

些細な愛を持って、
簡単な煮魚でも特別おいしいと感じてくれるような
関係が続くといいなあ。と
どこか他人事のように思う月曜日なのでした。


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