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日本初の女子留学生をモデルに描く新刊『この空のずっとずっと向こう』~作家が語る「執筆スタイルも自己表現」──鳴海風

1871年11月12日、100人を超える使節団が横浜からアメリカに向けて出港。使節団には日本初となる女子留学生5人が同行しました。
のちの日本の女性教育、社会進出に大きな役割を果たした彼女たち。いったいどんな少女だったのでしょう? 2022年1月新刊『この空のずっとずっと向こう』は、この5人のうちのひとりをモデルにした物語です。
作者の鳴海風さんは、おもに江戸時代を舞台にした作品を、子どもからおとなまで、幅広い層に向けて発表なさっている小説家。幼少期から作家になるまでの道のりと作品づくりの裏側を綴ってくださいました。「書斎、見せてください!」のリクエストにも快く応じてくださっています!

鳴海風(なるみ・ふう)
1953年新潟県生まれ。東北大学大学院機械工学専攻修了。博士(経営情報科学)、MBA(経営学修士)。主な作品として、『ラランデの星』(新人物往来社)、『和算忠臣蔵』(小学館)、『江戸の天才数学者』(新潮社)、『和算小説のたのしみ』(岩波書店)、『星に惹かれた男たち』(日本評論社)、『咸臨丸にかけた夢』(くもん出版)、『エレキテルの謎を解け 電気を発見した技術者平賀源内』(岩崎書店)、『トヨタ流品質管理に学ぶ! はじめての変化点管理』(日刊工業新聞社)などがある。
1992年『円周率を計算した男』(新人物往来社)で歴史文学賞受賞。2006年日本数学会出版賞受賞。『円周率の謎を追う 江戸の天才数学者・関孝和の挑戦』(くもん出版)が第63回青少年読書感想文全国コンクール中学校の部課題図書。

1.鳴海風(なるみふう)とは何者か

子どもたちにとって希望に満ちた年のスタートになることを祈りつつ、令和4年正月早々『この空のずっとずっと向こう』(ポプラ社)を出版しました。明治4年に横浜から船に乗ってアメリカへ留学した女の子たちの実話を元にした小説です。彼女らは帰国後、それぞれ女性の社会進出のさきがけとなり、また女子教育の発展に貢献しました。

鳴海風さんの最新作『この空のずっとずっと向こう』
(絵:おとないちあき、ポプラ社)

『この空のずっとずっと向こう』あらすじ
幕末から明治へ──。激動の時代でも自分たちらしく生き生きと暮らす人々、そして、海外渡航の夢を果たした少女の姿を描く時代小説。
主人公は江戸で暮らす医者の娘、そら。蕃書調所で英語を学ぶ侍の子、大六との出会いがきっかけで、自分も英語を学ぶために外国へ行きたいと思うように……。そらのモデルは、1871年、岩倉使節団に同行し渡米した日本人初の女子留学生の一人、吉益亮子。史実を踏まえ、胸躍る物語が展開します。

……と書くと、私は児童書作家かと思われるかもしれません。実は、私の表看板は、和算(わさん)小説家です。和算小説家という名称は、自分で創作したものですけど。

代表作『円周率を計算した男』(新人物往来社)のタイトルからも想像できると思いますが、江戸時代に発達した日本の数学「和算」を題材にした小説を多く書いてきました。ちなみに「和算」とは、明治以降の呼び方で洋算に対するものです。洋服に対する和服、洋食に対する和食と同じ発想です。江戸時代は、算法、算用そして数学と呼んでいました。

『円周率を計算した男』(新人物往来社)
蔵書している和算の古文書(一部)

ペンネーム鳴海風の由来をよく尋ねられますが、深い理由はありません。鳴海は幼少期に最初に覚えた語感の良い苗字。風も語感が関係していて「風(ふう)さん」と親しげに女性から呼ばれたかったからです(笑)。和算小説家を意識してつけたペンネームではありません。

代表作は単行本から文庫本、大活字本、点字本になり、国語の試験問題にも利用されました。一連の和算小説が数学の普及に貢献したと評価されて、2006年には日本数学会から出版賞をいただきました。

また、主人公は別の人物ですが、代表作と似たタイトルの児童文学『円周率の謎を追う』(くもん出版)は、課題図書(2017年)になりました。子ども向けも書いています。

『円周率の謎を追う 江戸の天才数学者・関孝和の挑戦』
(画:伊野孝行、くもん出版)

小説は中学時代から書き始めましたが、社会人になって、上記の代表作で歴史文学賞を受賞(1992年)し、プロデビューしました。
その後、主に和算小説を書きながら、定年まで会社で働きました。退社後約8年が経過しましたが、和算小説だけでなく、歴史ノンフィクションやモノづくりに関する書籍も(これは本名で)出しています。

2.子どもはのびのび育てよう

幸い長寿の時代に生きています。小説家は私の適性らしく、現在68歳ですが、これからもたくさん作品を書けそうです。
これまでの自分の道のりは、他人からは大きく回り道をしてきたように見えるかもしれません。でも、子どものころ、そして学生時代を通じて社会人になっても、矯正や束縛を受けることなく生きてこられた結果として、もっとも自分に向いた仕事にたどりつけたと思っています。

今回、私の執筆スタイルを紹介させていただきますが、特に重要だと思っている、のびのび育った子どものころの話から書いてみます。

3.私の執筆スタイル

3-1.教室からいなくなる子

小さいころから、私は集団生活の苦手な子でした。
幼稚園では、皆が屋内でお遊戯をしているとき、私は一人外の砂場で遊んでいました。友だちはなく、家で粘土細工に夢中でした。小学校に上がってからも、授業中とつぜん教室から出て行ってしまう子でした。勉強などしたこともなく、忘れ物はしょっちゅうでした。

それでも、先生はもちろん母からも叱られた記憶はありません。教育者(高校の教頭)だった父でさえ、そんな私を問題視していませんでした。当時の通信簿に担任が書いた「天真爛漫」という文字を読んだのは、だいぶ後のことです。
今の時代なら、両親は不安でいっぱいになり、先生からは自閉症とか発達障害とか言われ、特殊な環境に置かれてしまうでしょう。

私がようやく自我にめざめたのは、5年生のときでした。担任の先生から「絵が上手だね」とほめられたのがきっかけです。それまで自分の世界に閉じこもっていた私は、豹変(これは本来良い意味で使います)しました。なんと、学級委員に立候補しました。校内放送でオスカー・ワイルドの『幸福の王子』を朗読し、学芸会で独唱までしました。担任の先生は、私が「空想好き」であることも教えてくれました。
そのころ(1966年)描いた絵が、お寺の天井画として、今も残っています。題は『宇宙旅行』です。

大川寺(秋田県大仙市)の天井画『宇宙旅行』(1966年鳴海風画)

3-2.独学から研究へ

中学校に入学し、英語や数学が好きになっても、授業にはついていけず、ほとんど独学でした。小説を書き始めたのはこのころです。
007シリーズの小説の世界に没入していて、卒業文集には「将来の職業は秘密情報部員」と書きました。
高校に進むと、日本史は赤点ばかりでも、古文・漢文は得意で、時代小説に傾倒していきました。
一浪してやっと大学の工学部に入りましたが、独学はもう限界で、数学の単位を落として留年しました。

自分を見つめ直すため、家族からカンパを集めてイギリスへ行ったのは、007の国を自分の目で見るためでした。小説で読んだ場所が実際に存在していたことは衝撃でした。空想(夢と言ってもいいでしょう)と現実は行き来できると確信しました。

大学院に進学すると、私の独学スタイルは問題でなくなりました。研究とは教えられてすることではなく、自分で試行錯誤しながら夢を実現することだからです。教授から「研究に向いている」と指摘されたことは驚きでしたが、その言葉は私にとって「小説家になれる」と同義語でした。
ひそかに時代小説を書いて、新人賞応募を始めました。

3-3.研究者と小説家

創造(想像)することの好きな私は、製造企業に勤めながら、プロの時代小説家を目指すことにしました。
会社では新生産システムや新規事業の開発を担当しました。大学とは違って実用的な研究ですが、仮説・実験・考察といったプロセスは研究そのものでした。

小説の道場ともいうべき場が東京にありました。『瞼(まぶた)の母』や『一本刀土俵入り』で有名な長谷川伸(はせがわしん)の衣鉢(いはつ)を継ぐ、新鷹会(しんようかい)の勉強会でした。毎月十五日に開催される勉強会に、有休をとってでも愛知県から出席しつづけました。

宝物の長谷川伸(1884-1963)の写真を持つ筆者

そこで学んだことは、「小説は人間を書く」という基本目的でした。特に、長谷川伸先生は、歴史に埋もれた人物を発掘して再評価した作品を書き、それを紙碑(しひ)と呼びました。

一方、時代小説を書くため、江戸時代に関する専門書『三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)全集』や『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』、『徳川実紀(とくがわじっき)』などを、こつこつ買いためました。
時代考証を間違えないため、テレビ時代劇を見てはいけない、見るなら歌舞伎か舞台劇と言われました。

やがて、私にとって時代小説を書くことは、歴史と人間の研究になっていきました。

3-4.技術者らしい執筆スタイル

時代小説は現地取材が重要です。技術者がデータを収集することと似ています。

仕事が終わった週末の金曜日、不良高校生のように名古屋のデパートのトイレで着替えると、スーツとカバンはコインロッカーへ、自身は長崎行きの夜行バスに乗り込みました。幕末の数学者小野友五郎(おのともごろう)を書くために、友五郎が学んだ長崎海軍伝習所跡などを取材するのが目的でした。
翌早朝、着いてすぐ私は長崎港まで歩きましたが、目の前の風景を見て、幕末の長崎港にタイムスリップした気がしました。偶然にも帆船祭りの期間に訪れたからでした。

長崎港(2001年4月21日)

異国情緒あふれる長崎の町を歩きながら、堅物の友五郎が初めて女性に胸をときめかせるシーンが頭に浮かびました。遊び半分で、当時の長崎の夜空を天文シミュレータで再現してみたら、惑星直列というロマンチックな現象がPCの画面に現れました。どちらも小説に盛り込んだのは言うまでもありません(笑)。

安政4年3月3日(1857.3.28.)19時、長崎から見た西の空
ステラナビゲータV8(筆者所有)による星図

執筆のためにIT機器を導入したのは、小説家の中でも比較的早い方だと思います。
四畳ほどの狭い書斎の真ん中が執筆机で、小説を書くための資料のつまった書棚に囲まれています。

 
執筆机と中央のモニター画面

1台のPCで3台のモニターを使っています。中央のモニターに映っているのは、平賀源内の『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』巻之六の挿し絵(国立国会図書館デジタルコレクション)で、左端に「鳩渓山人自画国倫(きゅうけいさんじんじがくにとも)」とあり、源内が描いたことを確かめている様子です。一次資料にあたることは重要です。

執筆机の背面の書棚
執筆机の横の書棚

4.子どもの個性を大切に

高校2年の時だったでしょうか。理系か文系かでクラス分けがありました。私を含めて多くの同級生が悩みました。効率的な受験勉強のためとは言え、自分という人間をどちらかに分類してしまうような違和感を覚えました。

だいぶ経ってから、この分類が日本独自のものだということを知りました。先進国に追い付くため、明治から大正にかけて、学問を理科系・文科系、職業を技官・文官といった風に分けたことが今に残っているのです。西洋ではリベラルアーツ(一般教養)、中国でも古来「礼・楽・射・御・書・数」を六芸(りくげい)と言って、広く学ぶことを大切にしました。

昨年の11月『エレキテルの謎を解け』(岩崎書店)を出しました。主人公は平賀源内です。よく知られているように、源内は本草学者(ほんぞうがくしゃ/博物学者)で、戯作者(げさくしゃ/小説家)で、技術者で、西洋画家でもありました。
理系・文系で分けられていたら、あのような活躍ができたでしょうか。

『エレキテルの謎を解け 電気を発見した技術者 平賀源内』
(画:高山ケンタ、岩崎書店)

幸運なことに、私はどちらにも押し込められず(自分でも押し込めずに)生きてきました。
現代では男女の区別も問題視されています。理系・文系という表現が、人間を分類してしまうことになってはいけないと思います。特に、長い人生のスタートについたばかりの、個性豊かな子どもたちに対しては!

5.ジャンルを広げたい

会社には技術者として入社しましたが、新規事業開発を担当するようになって、経営学や経済学、ビジネスに興味を抱きました。
深く知りたくて、50代のうちの5年間、2つの大学院に自主入学しました。それぞれで、博士(経営情報科学)とMBA(経営学修士)を取得でき、視野が広がりました。会社の仕事に役立ちましたが、一方で小説家としての可能性も広がった気がしました。
会社を定年退社してから、ビジネス書を2冊(研究開発と品質管理の専門書)本名で出版しました。

最新作『この空のずっとずっと向こう』は、「和算小説」ではありません。それだけではありません。私にとって女性を主人公にした初めての作品でもあります。
自分のキャリアを土台にしながらも、ジャンルを広げいくことは、理系・文系といった枠にとらわれない私の執筆スタイルでありチャレンジです。

芸術は自己表現とよく言われますが、小説家の私の自己表現は、作品だけでなく執筆スタイルもそうなのです。
そのうち私が、絵本や現代ミステリ、洋書の翻訳を書いても驚かないでください。