【ショートショート①】返事をしない
わたしは洗面所のハンドソープのポンプを押した。
どす黒く赤茶色に染まった手を早く綺麗にしたかったのだ。
中身が少ないのか、スカスカしてあまり出てこない。
「お父さーんー!」
ハンドソープの替えがあるかどうか大きな声で呼んでみたが、キッチンから返事はなかった。
「そうか、お父さん返事なんてできないんだっけ」
わたしはお父さんに育てられた一人っ子。
お母さんはわたしが小さい時に家を出ていったらしい。詳しいことは話してくれないお父さん。
だけど、仕事をしながら、何不自由のないよう、わたしを愛情たっぷりに育ててくれた。
ただ昭和の男って感じで、不器用なところがたまに傷。そして、しつけには厳しかった。
箸の持ち方、姿勢、言葉づかい、、、わたしが女の子だからということもあるだろうが、特に「返事のしかた」には一番厳しくされた。
自分が呼ばれると、何かをしながら返事をするのではなく、その動作を一旦止めてから返事をしなければならなかった。
それを怠ったがゆえに何度叱られたことか。
そんなことを思い出しながら、わたしはハンドソープの替えがあるかどうか洗面所を探しだした。
そういえば着ている服にも、どす黒い赤茶色が点々と飛び散っているではないか。
「こんなに染まっちゃって、ちゃんと取れるのかな」
まださっきの感触が手に残っている。
お父さんとはずっと一緒に暮らしているけど、あんなことは初めてだった。
キッチンで包丁を持つお父さん。
「わからない…」
と何度も呟き、その手は震えているように見えた。
「疲れたな、もうやめにしようか…」
と伏し目がちにわたしに言ってきたのだ。
「もう戻れないよ」
とお父さんを必死に説得するわたし。
ついには「もう無理だ」と言い悔しい顔をするお父さん。
そしてわたしはそんなお父さんから包丁をもらい、真ん中めがけて勢いよく、、、
わたしはどす黒く染まったシャツを水で濡らし、つけておくことにした。
ハンドソープが見つからなければ、この手の汚れもそうそう取れそうにない。
「お父さーん!」
試しにもう一度呼んでみたが、やはり返事はなかった。
そう、わたしはこれで確信した。
"お父さんは返事ができる状態ではない"ということ。
あんなに返事のしかたにうるさかったお父さん。
お父さんもしっかり返事してよ。
ちゃんと声を聞かせてよ、、、
わたしはつぶやいた。
「他に方法があれば良かったのにな、、、」
キッチンに戻るわたし。
お父さんが振り向いた。
ずっとにらめっこしていたスマートフォンには、レシピ画像が並んでいる。
「やっぱりお前に切ってもらって正解だったな」
「だから言ったでしよ!料理が苦手なお父さんが、ひとりでケーキ作りなんてできるわけないって!」
「そんなこと言うなよ。チョコレートを塗る時にまわりにおもいっきり飛ばしちまったのは悪かったよ。お前の服や、そこら辺がチョコレート色に染まっちゃったからな、ハハハ。」
「もう!笑い事じゃないんだから!
お父さんの集中力が切れてきたなと思ったから、最後のカットはやっぱりわたしに変わって正解だったね!」
「そうだな、父さんの頑張りも、もうひと踏ん張りってとこだな」
「ほんと、お父さん頑張ってるよ。最初はびっくりしたんだから。
"自分の還暦お祝いにチョコレートケーキを作りたい"
って言い出すもんだから。
ま、明日の新入社員歓迎会の差し入れにはできないけどねー」
「お前、それはどういう意味だ。なま物だから無理ってことじゃなくて、味のことを言ってるのか?」
「冗談だって!今までろくに料理を作ってこなかったお父さんにしては、ほんと上出来だと思ってるよ。
お店で買うことも提案しちゃったけど、やっぱり作って良かったね。
とてももう60歳になったなんて思えない!
お父さん、、、改めてわたしのこと育ててくれてありがとう!これからも元気なお父さんでいてね!」
「お前こそ、10年間お疲れ様」
「?」
「就職して今日がまる10年の日だろ」
「えっ!?」
「その祝いのケーキだ。10年間はどうだった?あっという間だったか?」
「お父さんっ」
「父さんはな、10年間ずっとこの日がくるのを待ってた。
だから長かったぞ。」
「お父さんっ!」
「父さんの還暦祝いより、お前の就職まる10年の方が大事だからな。だから無理言って今日、お前に都合を合わせてもらったんだよ」
「お父さんっ、そんなこと考えてくれてたの?」
「母さんがいない分、お前には淋しい思いをさせたくなかったからな。父さんは毎日お前のことを考えてきたぞ」
「お父さんっ!ありがとう!」
「心配しなくても、明日からもずっとお前のことを考えているからな。お前を守ってやれるのは、父さんだけだ」
「・・・」
「ん?どうした?」
「・・・・(お父さんっ、感動で声にならないよ)」
「返事は??、、返事が聞こえないぞ!!」
「は、は、はい!」
「涙を拭きながらの返事になってるぞ!どうするんだった?」
「(手を止めて)はいっっっ!!」
「よーしっ!いつも通りの返事、できたな」
「もうっ!お父さん、こんな時ぐらい返事しなくても、よしとしてよ(笑)」
「それとこれとは話が別だ(笑)さぁ、ケーキ食べるとしようか」
桜が眩しいこの季節、わたしは不器用なお父さんからチョコレートケーキと、どこまでも果てしない愛情をプレゼントしてもらいました。
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