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紫陽花の貴婦人

に出会ったのです。本当です。
夏、夕空の下でとぼとぼひとり散歩をしている時でした。

その気温と湿度のせいで呼吸もままならないまま、どこに行くでもなくただ歩いていました。

老夫婦と大きな犬が2匹、前からこちらに進んできたというのに、上手く目を合わせることができませんでした。大きな犬は2匹とも賢そうでした。

そこから車が数台、私に風を起こしながら横切り、若い恋人が嬉しそうにアパートに入っていくのを見送りました。夏だ、と思いました。

1年はここに住んでいるというのに、初めて見る神社にたどり着きました。残念なことにチェーンで閉鎖されており、思わず、何故か泣きそうになってしまったのです。

落胆した私を殺し、快活な私が呼び覚まされて「どっちに進む?」と聞いてきたのですが、本当にどっちでも良かったので脚に身を委ねました。

その時、虫の羽音が近くに感じられ左に首を捻りました。そちらの方を見ると奥の方に、目を凝らしてもよく見えない所に、青と紫の色鮮やかな日傘を持った白いワンピース姿の貴婦人が見えたのです。

こんな住宅街に?何故?

俗っぽい私が最初に思ったのはこんなところです。

なぜだか目が離せず、暑さからかこの幻のような光景からか息が荒くなったのが分かります。

いけないものでも見たかのような気持ちになり、周りをキョロキョロと見回してしまいました。人も車も何もいません。先程まで騒がしいと思えた鳥や虫の鳴き声もなぜかピタリと止んだように感じたのです。

一瞬の静寂とその幻の光景は、一瞬だったとは思うのですが、30分ぐらいに感じられました。恐らく長針は1メモリも進んでいなかったでしょう。

次の瞬間、異様な安心感とどこか懐かしい気持ちに誘われ、貴婦人のいる方向に脚が進んでいきました。思考はもう止まっていました。

10歩ほど進んだところで私の中の目を輝かせた少年のような私が、絶望とそのあっけなさで瞬く間にいなくなってしまったのです。

貴婦人だと思われたソレは、半月のような形状で咲いていた紫陽花の下に白く短い柱が建っていただけでした。「だけ」と言えど、それ以下でもそれ以上でもなかったのだと思います。

その瞬間に色んな雑音と、普通に近くを歩いている男性を確認し、家路に着きました。

明らかに肩を落として帰りましたが、今思えば夏の幻とはあの貴婦人のことだったのではないか、と年甲斐もなく思うのです。

夏の暑さにやられた私が、夏に魅せられた一瞬の幻。たしかに居たのだと思うと、居たのです。ただそこに。それ以上でもそれ以下でもありません。

これは、私の、私だけの夏でした。紫陽花の貴婦人と私だけのひとときでした。

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