「本質的思考」に関する本質的考察

「本質」という言葉がよく使われる。

「まずは本質的問題を探ろう(キリッ」とか、
「それって本質的には何も解決してないよね(ドヤァ」とか、
「ちょっと待って?わたしたち、本質を見失ってない?(ニチャァ」といったように。

「本質」という言葉を使っている人の顔はそれはもう気持ち悪いぐらいに輝いており、自身の鋭い発言に酔いしれ深刻な二日酔いに見舞われること請け合いだ。それほどまでに人を魅了する「本質」とは、いったい何者なのか?

「本質的思考」があるからには、「本質的でない思考」もあるはずだ。「本質的問題解決」があるからには「本質的でない問題解決」もあるはずだし、「本質的原因」があるなら「本質的でない原因」もあることになる。

では、例えば「本質的でない原因」とはどのようなものだろうか?

売れないラーメン屋の店主が売れない理由を考えているとしよう。「まずいこと」は本質的原因のような気がするが、「SNSで広報をしていないこと」はなんとなく非本質的な原因に思える。では、広報やマーケティング職は「非本質的な仕事を生業としている人」なのだろうか?それはあまりに失礼な話に思える。

「本質」ってなんなんだ!本質的に理解したい!

「本質」とは

端的に言えば、「本質的」とは「一般的」「普遍的」「抽象的」あるいは"general"のことだ。「個別的」「特殊」「具体的」あるいは"specific"の逆である。(哲学の世界では後者を「偶有性」と呼んだりする)

「本質」は広辞苑で以下のように説明されている。

ほん‐しつ【本質】
〔哲〕(essence イギリス・ フランス・Wesen ドイツ)
①あるものをそのものとして成り立たせているそれ独自の性質。例えば、動物を動物たらしめている性質。本性。
②変化常ない現象的存在に対し、その背後または内奥に潜む恒常的なもの。この意味での本質は実体として形而上学的な存在と解される場合が多い。↔現象。
③実存に対する語として、なんらかのものが現に存在しているという事実から離れて、そのものが「何」であるかという定義によっていわれるもの。
④フッサールの現象学の用語。事実と対立し、本質直観の方法によって捉えられる事物の形相。

何やら難しいことが書かれているが、要するに「一般的・普遍的性質」の事だ。

例えば、椅子の本質を考えよう。
「足が4つあること」は椅子の本質だろうか?いや、パイプ椅子のように2つの部分で地面と接している椅子もあるから、それは普遍的性質ではない。
「持ち運べること」は椅子の本質だろうか?いや、床に固定された椅子もあるから、それも普遍的性質とは言えない。
では、「椅子を椅子として成り立たせているそれ独自の性質」とは、つまり「椅子の普遍的性質」とは何だろうか?

それは、「座るために作られたこと」だ。足が4本あることや持ち運べることは、個別的性質に過ぎない。たまたまそういう椅子もあるってだけだ。

もっと言えば、「座るために作られたモノ(部分)」に「椅子」という名前を付けたと考える方が現実に近い。床に固定された椅子をイメージするとわかりやすいが、物理的には繋がっている一連の部分(椅子&床)のうち、座るために作られた突起部分を勝手に切り取って「椅子」と呼んでいるに過ぎない。
椅子という実体が先にあって、それに共通する性質を探してみたら「座るために作られた」ということが後からわかったのではない。「座るために作られたモノ(部分)」を「椅子」だと先に定義して、定義に合致するものが椅子と呼ばれているのだ。
「本質」とは「定義」だとも言える。

↑「敷き詰められたタイル」とその「隙間の部分」は明らかに目で見て区別できるし材質も異なるが、どちらも「床」だ。しかし、そこから突き出している「突起部分」には「椅子」という別の名前がついていて、床と区別される。

実存は本質に先立つ

「人間とは何か」「人間は如何に生きるべきか」という「人間の本質」を探る既存の哲学にNoを突きつけて、「俺たちは何らかの目的のために生まれてきたんじゃねぇ!まず俺たちが生まれた!それから生きる目的を決めるんだ!」と主張したのはサルトルという哲学者だ。椅子と違って、人間には本質がない。実存(まず俺たちが生まれた!)本質(生きる目的)に先立つ。実存主義と呼ばれる哲学的立場だ。

日本で最も有名な実存主義哲学は、相田みつをの有名な詩だろう。

にんげんはねぇ 
人から点数をつけられるために 
この世に生まれてきたのではないんだよ
にんげんがさき 点数は後

本質的思考

以上を踏まえた上で、「本質的思考」なるものについて考えてみよう。試しに「本質的思考」で検索してみると、面白い記事をたくさん目にすることができる。

まず思考力を鍛えるうえで意識したい習慣は、「考えることにコミットすること」だ。物事には常にその本質が存在する。考え抜くことによって誰でもいつでも、その本質に到達することができる。
次に「話す」うえで重要なのは、口グセだ。たかが口グセでも侮れない。「本質的には~」と口ずさむ習慣をつければ、出てくる言葉はおのずと本質的なものになる。

驚くべきことに、のっけから「物事には常にその本質が存在する」とサルトルに挑戦状を叩きつけてきる。さらに、西洋哲学が2500年の思索の果てに「本質、辿り着けないんじゃね?」とヤレヤレ系モードに突入したのをしり目に、本質に到達する方法を明快に宣言している。なんてこった。

おまけに、口癖1つで出てくる言葉が自ずと本質的なものになるという。馬鹿にするのも大概にして欲しい。…いや待て、「事業家・思想家」なんていう仰々しい肩書きを持つ方が言うのだから、もしかしたら本当に…?でも、さすがに…。試してみる価値はあるのか…?

本質的には、新垣結衣は私と結婚するべきだ。

一般的思考

「本質的」が「一般的」という意味なら、「本質的思考」なんて不明瞭な言葉を使わずに、わかりやすく「一般的思考」と言ったらどうだろうか。かっこいい言葉を使ってお茶を濁しても新垣結衣とは結婚できない。私と結婚するべきであることは、新垣結衣を新垣結衣として成り立たせているそれ独自の性質ではないのだから。
「一般的思考」というと「ありきたり、ありがちな思考」というニュアンスがあるので、「一般性志向思考」と言う方が明瞭かもしれない。でもそれだとやっぱりかっこいい言葉を使ってお茶を濁してる感じがあるし、口に出す度にダジャレを言ってるみたいで恥ずかしいからやめとこう。

一般的思考とは、「一般的法則・原因は何かな?」と考えることだ。
売れないラーメン屋の店主が「金曜の夜は酒を飲みたい人が多いだろうから、ビールを出したら売上が伸びるかな?」と考えるのが個別的思考で、「そもそもラーメンがうまけりゃ何曜日だろうと人来るし、まずかったら来ないじゃん!」と気づくのが一般的思考だ。本質的思考、案外ちょろいかも。

「本質的思考」を一般的思考だと理解した上でわかりやすくまとめているのが、以下のnoteだ。ここでは「抽象的」という言葉を使っている。

物事の本質がわかる、とはどういうことだろうか。僕は、本質を理解している人とは、「見た目は違うが、実は同じもの」を理解している人のことだと思う。

『本質思考トレーニング』なんて名乗りながら個別具体的なテクニック紹介に終始する本を歯切れよく批判したレビューも見つけられた。

本質思考のトレーニングというよりは、本質的な問題解決を妨げる落とし穴とそれへの対処についての本です。問題解決に向けての思考の際に陥りがちな9つのワナとそれへの対処が書かれており、構成・内容ともにわかりやすく、地に足の着いた良書だと思います。ただ、このワナに引っかからなければ本質思考ができるわけではないと思うので、タイトルは変えた方が良い気がしました。

なお、後ほど触れるが、本質的であることが常に重要であるとは限らないし、本質的ではないが意義深いこともある。むしろ、本質とかいう小難しいことを考えていたら「地に足の着いた良書」は書けないだろう。

ちなみに、「結論ファースト」を本質的に(一般性を志向して)考察して小難しいことを書き散らかしているのが以下の記事だ。意外と他に誰も書いてないのでオススメだ。

本質的問題解決

一般的問題解決(一般性志向問題解決)に話を進めよう。

カフェの店長が、仕事が雑なバイトに頭を悩ませているとする。

在庫管理表を記入し忘れてしまう。それなら閉店業務時と開店業務時にダブルチェックさせよう。(閉店から開店までの間に在庫は減らないから有効)
週に一回交換するはずのスポンジが交換されていない。それなら毎週月曜に店長自身のシフトを入れて、そのときに交換しよう。(定期的に必要な作業は店長が定期的にシフトに入ることで対処可能)
掲載期限が過ぎた掲示物が放置されている。それならリマインダーをセットし、シフト中に通知が行くようにしよう。(不定期だが最悪多少過ぎても構わないのでリマインダーで充分)

…というように、個別的な事情に合わせて対応策を練るのが個別的問題解決だ。どれも悪くない解決策に思える。

ここで、「待てよ?在庫管理もスポンジの交換も掲示物の交換も、全て業務リストに書いてあることじゃないか。どうして業務リストに書いてあることができないんだ?どうすれば業務リストに書いてあることを漏れなく実行させられる?」というように、一般的な性質に着目して対応策を練るのが一般的問題解決だ。こちらは先ほどとは逆に、「それができれば苦労しないよ笑」と言われてしまいそうである。

もうひとつ、「それって本質的じゃないよね~」と言われがちな問題解決の例を挙げよう。

就活生と企業を結び付けるマッチングサービスを考えよう。マッチングサービスの本質(一般的性質)は、マッチングさえできればwin-winになる二者が出会えていない状況で、サーチコストを代わりに負担してあげることで二者を結び付け、節約されたサーチコストの分だけ対価を得るというビジネスだ。メルカリやココナラやマッチングアプリ(出会い系)にも共通するマッチングサービスの普遍的性質である。

本質は「マッチングさえできればwin-winになる二者を結び付けること」だ。「イベントに参加したらアマギフあげます!」といって学生を集め、「マッチングをしてもwin-winにならない学生」を企業のもとに送り込むことは本質的問題解決とは言えない。上司がそんなアイデアを出したときは、「それって本質的じゃなくないですか?(ニタァ」と、したり顔で言うチャンスかもしれない。

バラマキによる顧客獲得が正当化されるのは特殊なケースだ。例えば、乗り換えコストが高い保険の契約における手土産、ネットワーク外部性(みんなが使っていることでサービスの質が高まる性質)があるpaypayなどの決済サービスにおける還元キャンペーン、あるいは実際に体験してみて初めてその良さがわかる菓子の試食などだ。これらは、「顧客を獲得したこと」それ自体が顧客の維持・拡大に繋がる。

マッチングサービスにおいてバラマキが正当化される場合は限られる。例えばサービスに登録している企業と学生を増やす段階でのバラマキ(ネットワーク外部性)。あるいは、リピート率が極端に高い場合にはマッチング段階でのバラマキもありうる(体験してみて初めてその良さがわかる)。

「マッチングさえできればwin-winになる二者を結び付けること」が本質なのだから、サービスに登録している企業と学生の数を増やしてマッチングの候補を増やすことや、企業の求める人材像や学生の求める企業像を正確に把握してマッチングの精度を上げていくことが、本質的問題解決になる。要するにサーチコストを負担してあげるしかないのだ
大手のマッチングサービスが軒並み「会員数の拡大」と「嗜好性の把握」にやっきになるのは偶然ではない。

「本質」と言うと難しく聞こえるが、一般性・普遍性のことだと考えればそれを見つけることはそれほど難しいことだとは思えない。では、なぜ人は非本質的な解決策に手を出してしまうのだろうか?

なぜ人は非本質的な解決策に手を出すのか

端的に言えば、アカウンタビリティ(説明責任)を負うからだ。

ここで言うアカウンタビリティとは、「成果を目に見える形で期日までに示す責任」のことだ(やや限定的な定義かも)。レスポンシビリティ(応答責任)、すなわち「成果を上げること」と区別される。

「目に見える形」で示すには具体的な解決策が必要だし、「期日まで」に示すために簡単に実行に移せる個別的な解決策に飛びついてしまいがちだ。
本質的な(普遍的に有効な)解決策は「それができれば苦労しないよねー」となりがちなものが多く、そもそも常日頃から取り組んでいるために「解決策」としての地位を与えられにくい。

「資本主義国家の本質とは、国民の自由な経済活動を尊重しながら市場の失敗に対処することであり、政府は独占禁止法を厳格に運用することで…」などと御託を並べても国民は満足しない。成果を目に見える形で期日までに示さなければ選挙で負けてしまう政治家は、「携帯料金値下げします!やい携帯会社、値下げしないと怒っちゃうぞ!」「私の在任中に携帯料金が〇〇%下がりました!」とアピールしてアカウンタビリティを果たそうとする。
言うまでもなく、特定の業界に政府が介入すること、とりわけ値下げを命じることが有効なのは特殊な場合に限られる。とはいえ、そのような個別的な介入は「成果を目に見える形で期日までに示す」には有効だ。一方で、資本主義の本質に立ち返って自由競争を促進しつつ独占禁止法を厳格に運用したところで、アカウンタビリティは果たされにくいだろう。

このような非本質的問題解決において一役買うのが代理変数だ。かっこよく"KPI"と呼んでもいい。
「経済的豊かさ」は計測が難しいから、普遍的に連動している訳ではないけど「GDP」を代理変数として用いよう。うーん、GDPも中々伸びないな…。じゃあ「株価」を代理変数にしてしまおう。よし、これで国民に「私の在任中に株価が〇〇%上昇しました!」と発表できるぞ!という感じだ。
間接民主制は本質的に代表者が主権者にアカウンタビリティを負うため、非本質的問題解決に傾きがちになってしまう。

ビジネスにおいては、部下が上司に対してアカウンタビリティを負う。上司は部下の進捗を管理しなければならないが、つきっきりで一挙手一投足を監視する訳にもいかない。必然的に「成果を目に見える形で期日までに示して」となる。

「営業部長、新規顧客獲得の進捗はどうかね?」「はい。そもそも営業には量と質のトレードオフ、つまり新規契約数と契約継続率のトレードオフがありまして…」「御託はいいから数字を出しなさい!」「ははー。先月の新規契約数は昨対比〇〇%増となりました!!」
もちろん、この例では「新規契約数」がKPIだ。「契約継続率」もKPIなのだろうが、これは往々にして別の部門が追わされているので営業部長にしてみれば知ったこっちゃないのだ。
上司は部下の働きをKPIを通じて管理し、アカウンタビリティを負わせる。上司は「上司の上司」にアカウンタビリティを負うし、トップオブ上司である経営陣は株主に対してアカウンタビリティを負う。株主(ファンドマネージャー)は資金の出どころ(アセットオーナー)に対してアカウンタビリティを負う。

冷戦期のアメリカに、対ソ戦略における本質的問題を追究したアンドリュー・マーシャルという人物がいた。彼は、安易に手近な問題解決に手を付けることなく常に「解くべき問題は何か?」を考え続け、冷戦の勝利に貢献した。マーシャルが本質的問題解決に注力できたのは、CIAやNSCのような官僚的組織に所属していなかったことと無関係ではないだろう。

一方で、「成果を目に見える形で期日までに示す」責任を負うビジネスマンは、今日も今日とて非本質的問題解決に精を出すのだ。お疲れさん!

非本質的問題解決のメリット

人が非本質的問題解決に向かいがちな理由は、裏を返せばそのまま非本質的問題解決のメリットになる。すなわち、「成果を目に見える形で期日までに示す」必要がある場合には一般性に頓着せずすぐに具体的な解決策に手をつけるべきだし、ひとたびKPIが与えられたらそれをひたすら追うのが部下の仕事だ。

(これはあくまで傾向であって本質的問題解決の本質ではないが)本質的問題解決は往々にして「それができれば苦労しないよねー」となりがちだ。

「ラーメンがうまけりゃ人来るんじゃね?」
  「それができれば苦労しないよねー」

「マッチングの精度が上がれば顧客満足度上がるんじゃね?」
  「それができれば苦労しないよねー」

「株価とかいう表面的な指標に囚われず、真の豊かさを追求しよう!」
  「それができれば苦労しないよねー」

「営業の質を落とさずに量を増やさなければならない!」
  「それができれば苦労しないよねー」

売れないラーメン屋の店主に対して、麺の茹で時間をあと10秒短くすることを提案する人と、金曜の夜にビールを提供することを提案する人がいたとき、あなたはどちらを評価するだろうか?
個別的な解決策は、それが「成果」と呼べるかどうかは別として、とりあえず「変化」は生むことが出来る。頭でっかちな哲学者より、手先が動く実務家の方が好まれる今日この頃。だって、「変革」ってなんかいい響やん?

さらに言えば、分業制においては個別具体的な解決策を考案する方が望ましいとすら言える。

「営業部長、新規顧客獲得の進捗はどうかね?」「はい。そもそも営業には量と質のトレードオフ、つまり新規契約数と契約継続率のトレードオフがありまして…」「そういうことを考えるのは社長である私の仕事だから、君は新規顧客の数字だけを追ってくれればいいんだよ」「ははー!」

階層構造のある組織でみんなが本質を考えるのは、リソースの偏在であり無駄遣いと言える。
というか、このとき営業部長が考えるべきは「売上増減の本質(新規顧客数と契約継続率のバランス)」ではなく、「新規顧客獲得数の本質(アプローチ数とターゲティングのバランス)」なのだろう。ただただ思考の抽象度を上げれば良いと言う訳ではなく、自分の役割に合わせた抽象度で解決策を考えるべきだ。

(もっとも、提案は上司によって一段上の抽象度から評価されるので、あらかじめ抽象度を上げておくことでコミュニケーションがスムーズになるのかもしれない)

本質にこだわるべきとき

本質(一般性)にこだわらなければ、解決策は場当たり的となり的はずれな手を打ってしまう可能性がある。一方で、本質に固執して頭を悩ませているだけでは具体的な解決策は出てこない。
我々は「本質的思考」に対してどのような態度を取るべきだろうか?

この手の問題の本質はトレードオフの構造であり、視点の長短や価値観に合わせて最適な水準を探っていくしかない。端的に言えば、「ちょうどいい感じ」を目指すしかないのだ。
とはいえ、そんな毒にも薬にもならない本質だけではオチが弱いので、最後にひとつ具体的な指針を提示しよう。

すなわち、アカウンタビリティを負わせる側に立ったときは本質にこだわるべし

アカウンタビリティを負う側の人達、つまり「成果を目に見える形で期日までに示す」ことを求められる人達は、どうしても非本質的問題解決に陥りがちだ。そしてそれは、本質に固執して何もアクションを起こさない人よりはマシなのかもしれないし、分業の一環として個別具体的な思考を求められているとも言える。であればこそ、アカウンタビリティを負わせる側の人間は、彼らの起こす具体的なアクションを「本質」という観点から品定めしなければならない

新規契約数を追わされている営業部長が契約継続率を省みないことはやむを得ないが、経営陣は営業部長が上げる数字に一喜一憂している場合ではない。
選挙で再選を目指す政治家が株価の上昇をしきりにアピールすることは無理もないが、有権者は数字の裏にある現実の豊かさを見極めなければならない。

例えば部下に割り振った仕事にコメントするとき。例えば投資家として企業と向き合うとき。例えば有権者として政治家と向き合うとき。
あなたがアカウンタビリティを負わせる側に立ったときは、「本質」というものにちょっとばかりこだわってみるのも悪くはないかもしれない(キリッ

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