見出し画像

【短編小説】バカモノたちへ

 中学のときの思い出だ。俺はそのときから既に勉強が出来る方ではなかったが、休み時間に友人と下らない話をするのが何よりの楽しみだったので、学校へ行くことは苦ではなかった。それに、俺よりも勉強が出来ない女がいたのでギリギリ最底辺は回避できていた。彼女の名前は木下と言った。
 当時の学校はプライバシーも何もあったものではなかったので、成績は優秀な者から順番に廊下に張り出された。クラス平均もランキング形式で発表されたのだが、いつも俺たちのクラスはビリだった。「木下と山本の麓コンビ」なんて言われることは日常茶飯事だったが、俺が偶然社会科のテストで五十二点を取ったときなんかは「震度七の大地震で日本が崩壊する」なんてデマが流れていたときのことだったから、「あの噂は本当なのね」と泣き崩れた女が居た。失礼な話だ。
 クラス平均をランキング形式で発表していたのは、俺たちのやる気に火をつけようと頑張っていた先生たちの創意工夫だと思う。ただ、その工夫は時に異様な燃え上がり方をするらしい。学級委員を務めていた高井がそうだった。あの女は真面目とストイックを混ぜ合わせて濃縮した物質をそのまま人間の型に押し込めて作られたような奴だった。面倒な係の仕事も委員会も、みんなが目をそらす中彼女だけは分厚い眼鏡のレンズ越しに黒板を見つめて、ピッと手を上げたものだ。勉学も部活(吹奏楽部でフルートを担当していた)も委員会も、全てに手を抜くことなくタスクをこなす彼女は先生からの評判はよかったものの、友達はどうにも少なかったようだ。
 さて、話を戻そう。何もかもを完璧にこなしていた彼女が、クラス平均でビリになることに耐えられるわけがなかった。俺と木下は放課後高井から呼び出されて何度も何度も何度も叱責を受けた。俺は最初の方こそ口をとがらせてへぇへぇと聞いていたが、ふと木下を見ると俯いて涙を零しそうになっていた。泣くくらいならベンキョーすりゃいいのに、と思わなくもないが、俺も勉強はできない方なので色々な方法を試しても無理だったものは無理だ(これも高井に言わせれば甘えなのだろうな、と思った瞬間悲しくなった)。
 この時高井に何を言われたのかほとんど覚えていないが、何もそこまで酷い言葉を並べなくともいいじゃないか、と思ったことは覚えている。俺はぶえー、ぶえー、というとぼけた金管楽器の音をぼんやり聞きながら、興奮した高井の頬を見ていた。
「私はあなたたちのためを思って言っています。分かりますよね」
 分かりたくねぇなぁ、と思ったが、同時に俺たちはどうしようもない悪人なのだろうなという絶望が、雲になって心を覆った。漢字の書き取りも一次関数もできない俺たちは学舎の中では絶対的な悪だ。
 木下はずっと下を見つめていて動かない。そんな彼女を見た高井は「泣くくらいなら勉強すればいいじゃないですか」と言いやがった。マジかこの女、と驚愕した俺も、先ほど同じことを思った男だ。高井を責める権利はない。
 言いたいことを言い終えると高井は乱暴に教室を出る。俺はいつも高井の足音が聞こえなくなってから、木下に飴を渡した。ハンカチはいつも丸まっていて小汚かったので、貸すに貸せなかったのだ。
 木下は俺と違って根は真面目だった。宿題もこなしていたし、授業も真面目に聞いていた。俺は宿題も出さずに授業もたまに寝る始末だったので、木下はただ不器用なだけなのかもしれないなと思った。俺よりも頑張っているのに俺よりも結果が出せないのはあまりにも可哀想だった。高井は「頑張りが見えない」と言っていた。しかし違うのだ。高井は木下の頑張りを見ていないだけなのだ。廊下に貼りだされる模造紙でしか木下を見ていないのだ。
 何度目の説教のときか忘れたが、木下は俺に「いつもごめんなさい」と言った。どうやら俺のことを巻き込まれた可哀想な被害者だと思っているらしい。俺は首を横に振った。同時に、彼女を可哀想な被害者にしなければと思った。
 今でもはっきりと思い出せる。あれは秋の定期試験結果が廊下に貼りだされたときのことだった。クラスの連中が異様にざわついている。俺はその理由を知っている。この時、俺たちのクラス平均は二位にいつも以上の差をつけてぶっちぎりのワーストだった。木下が目を丸くしてこちらを見ていた。それもそうだ。その後俺は担任に「どうして五教科全部白紙で出したのか」という公開処刑を食らったが、そのときの高井と木下の顔は未だに夢に出る。木下は一重のぽたっとした目をこれでもかと見開いて驚いていたし、高井は般若の形相でこちらを睨んでいた。俺は「一問も分かりませんでした」という見え透いた嘘をついたから、その後みっちり補習を受ける羽目になった。
 補習を終えると、いつも木下が待っていてくれた。「どうしてあんなことをしたの?」と聞かれる度に、俺は「難しかったじゃん」と答えた。木下は俺の嘘を嘘とは言わなかった。
「そうだね、難しかったよね」
 と言って悲しそうに笑った。
 改めて考えると、否、そんなことをしなくとも分かることだ。それだというのに俺は初めて、俺の行動は高井を不愉快にすることは出来ても木下を救うための行動にはならないと気がついた。俺はしどろもどろになりながら「俺は頑張ってないけど、木下は頑張ってると思う」とか「高井の言うことにムカついたからなんか腹立って」とか、本当に学力最底辺の言葉を並べた。
 木下は、小さな声で「いつもごめんなさい、」と言った。

俺は勉強ができなかったから高校を卒業(オヤジに「今時中卒だと苦労するから高校には入れ」と言われたが高校でもめちゃくちゃ苦労した)して、そのまま流れるように地元の小さな会社に就職した。俺の指導を担当した先輩は割合の計算が出来なかったが、営業のトークスキルに関しては目を見張るものがあった。先輩は酒が入る度に「山下はバカだけど、俺はもっとバカだ。だけどバカでもバカなりにいーところはあるんだぜ、社会ってそーゆーもんさ」と言った。俺は何だか悲しくなって、「社会はそうでも、学校はそうじゃないっすよね」と言った。
 先輩の顔の筋肉が、きょとんとした動きを見せたのを俺は視界の端で感じていた。バカな先輩はバカな俺の頭をわしゃわしゃと撫でて「大丈夫だ」と言った。
 ……今、木下は元気に過ごしているのだろうか。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)