見出し画像

【短編小説】割れた丸花瓶

 中学生の僕は、クラスでもあまり目立たない立ち位置をキープしていた。運動ができる方ではなく、部活も男子にしては珍しい美術部だった。僕の同期に美術部の男子は一人しかおらず、彼は名前をSと言った。
 Sはわりと変わったヤツで、美術部に入ったのも焼き物をしたいからだと言った。僕は中学校の美術部に焼き物の設備があるとは思わなかったのだが、案の定そういったものはなかった。かろうじて七宝焼きに使う釜(それすらも、壊れているのでゴミに出す予定だったらしい)があるくらいで、あからさまに落胆するSの姿は少し面白かった。僕はSが美術部を辞めるものだと思った。しかしSは慣れない絵筆と油絵具を使って、様々な作品を作っていった。彼の描く絵はいつも陶芸に関する物だった。僕はSの描く絵が好きだった。僕に焼き物に関する知識はない。しかし僕はSの絵が好きだった。陶磁器の置かれた空間が、陶磁器の形にくりぬかれるような錯覚を、Sの絵は見事に表現していた。釉薬うわぐすりの艶、素焼きの素朴な質感。僕の思い出のどこかで郷愁ノスタルジーがゆったりと膨張する……。
 Sは美術部の他、習い事として陶芸をしていた。県の中学美術コンクールの出展作品に、Sは陶器を選んだ。僕としてはSの絵画が本当に好きだったので、新作を拝めないのは少々残念であった。
 今思えば、僕はこの時、なんとしてでもSの描く絵が見たかったのかもしれない。それを自分の技術で代用したかったのだろう。僕はSに絵のモデルになってほしいと頼んだ。轆轤ろくろを回すところを見たいと言った。Sは手で轆轤ろくろを回すポーズを取った。これは僕の錯覚だという自覚はあるが、この時僕は鼻腔に土の匂いを覚えていた。
「こう、やってるところが見たいの?」
 Sは笑いながら快諾してくれた。

 その週末、僕は安いデジカメを使ってSの写真を撮影しに行った。Sはその日一日工房にいるから、いつ来てもいいよと言った。Sから手渡されたメモには工房の名前と住所が記載されていた。
 工房は家屋と外の境界が曖昧な造りをしていて、想像以上に狭かった。いや、元の部屋は広いのだが、よく分からない壺やら何やらが所狭しと並び、棚も「自分、ここに居ていいんすかね?」と言わんばかりに雑な配置をしていた。Sは特に動じることなく、土をこねていた。入って良いのか迷っていると、恰幅のよい女性が「どうぞお入り下さい」と言った。僕は恐る恐る工房へ足を踏み入れた。
「来てくれたんだ」Sは笑った。
「できればかっこ良く撮影って、かっこ良く描いてね」
 僕は頷いた。
 Sは僕をじらすようにして、延々と土をこねていた。時折あの恰幅のよい女性が来て、「たまにお水を飲んでね」「塩飴もあるから」と言ってくれた。そういえば、この施設は少しばかり暑かった。僕は定期的にSに声をかけた。Sの集中を切らしてしまったら申し訳ないとは思いつつも、熱中症とは別の、得体の知れない不安がそこへ広がっているのを僕は見た。轆轤ろくろを回すだけではなく、土をこねるSの姿も僕は何枚か写真に撮った。何故かは分からないが、必要だと感じたのだ。Sは時々こちらを向いて、視線をサービスしてくれた。彼の頬には粘土がこびりついていた。
 いよいよSが轆轤ろくろを回す時が来た。こねた粘土を轆轤ろくろに設置して、形を綺麗に整えていく。僕は粘土を乗せたら轆轤ろくろはすぐに回り出すものかと思っていたのだが、どうやらそうではないようだ。Sは電動轆轤ろくろを起動させる。ぐぅいー……という音が工房にこだました。僕は無心でシャッターを切った。濡らした手で優しく土塊つちくれの表面を撫でるSの顔は真剣そのもので、僕はその顔を美しいと思った。粘土は大人しくSの手に従い、穴を開けたり太くなったり細くなったりした。粘土は純粋な意志を持っていた。Sの手先から伝わる指示に大人しく従い、Sの理想になるよう形を変えていった。僕は最初、何を作っているのか皆目見当も付かなかった。最初は「湯飲みかな」と思い、次には「随分と長い湯飲みだな」と思った。しかし土塊つちくれがだんだん丸花瓶の姿へ変貌するのを見て、思わず「あ、」と声を出した。
 Sはにやりと笑って、スポンジやヘラ等も使って、土の中から丸花瓶を取りだした。僕は何度も何度も写真を撮った。蛹が蝶になるときのような感動が僕の中で膨れ上がっていた。僕は僕自身の存在が工房から切り離された気分になった。恰幅のいい女性が戻ってきて「あらSくん、随分と上手に出来たじゃない」と言った。彼女はこの工房の女主人だった。僕はシャッターを切る手を止めて、軽く挨拶をした。
 Sは満足げに微笑んで、「はい!」と元気に返事をした。最後に糸を使って、下の粘土の塊と丸花瓶を分離させると、それを近くの板へ置いた。

 焼き物というのはできあがるまでに時間がかかるらしい。僕はそれを知らなかった。あのあとすぐに釜に入れて焼くのかと聞いたら、Sは僕の無知を笑うことなく「しばらく乾燥させるんだ」と言った。Sの顔には知識の優位性に満足する人間の醜悪さなどは微塵もなかった。「もしかしたらこの男も自分と同じところへ来てくれるのではないか」という期待があからさまにあった。己の愛する物を共有できる可能性に対しての喜びが、彼の目の中で弾けていた。
 丸花瓶を乾燥させる間、Sは色々な焼き物を見せてくれた。Sが初めて作った湯飲みを見たとき、僕はそれをぐい呑みかと思った。土は焼くと縮むのだそうだ。僕はまたひとつ賢くなった。
 随分と後になって、僕はSがあえてあの場所で丸花瓶を作ったことを知った。僕がSを絵にすると言ったから、背景の見栄えなどを考えてあえて釜の近くで一連の作業を見せたのだ。

 僕はSの丸花瓶のことを未だに覚えている。最後の工程、釉薬をかけたあとの本焼きのときも、僕はカメラを構えていた。Sはにこにこ笑って「これも絵にするのか?」と言った。僕はそれを聞いて、連作も良いなと思った。もし連作にするのであれば、僕はこの瞬間も絵にしようと思った。
 本焼きが終わり、釜からあの丸花瓶を取りだそうとしたSの顔が急に硬直し、期待と喜びが彼の双眼に満ちた。彼はまるで妊婦から赤ん坊を取り上げるようにして、丸花瓶を手に取った。
 素焼きの段階ではよくある丸花瓶だったそれは、釉薬の美しいグラデーションを得て生命として昇華した。冬の殺風景な土の中から花々が芽を出すときの瞬間を、僕はあの丸花瓶に見たのだ。それはSも同じだったらしい。彼は手の震えを一生懸命に抑えようとしていた。
 この丸花瓶が県の美術展に飾られるとしたら、それはとても素敵なことだ。僕は土の匂いを感じながら、心地よい喜びに身をさらしていた。

 美術部の顧問はSの丸花瓶を見て「あらあら、あらあらあらあら」以外の語彙を失うところだった。
「これはもう、すわらしいさくひんれすね」
 濁点の発音方法も忘れてしまった顧問は、Sの丸花瓶を持つ自信もなかったらしい。
「ろめんなさい、あっ、ごめんなさい、Sくん、預かりたいところだけど、私、今手が震えてて……出展締め切りが近づいてきたらまた持ってきてくれないかしら?」
 Sは先生の様子を面白がっていたが、僕には先生の気持ちがよく分かった。あの丸花瓶を初めて見たとき、僕もあんな風になっていた。先生と違うのは、僕はそのとき思春期特有の拗らせに片足を突っ込んでいたので、あの感動を素直に表現しなかったのだ。もしも僕がふにゃふにゃになっていたら、Sは僕を笑ったのだろうか?

 この時の僕は、すべての人間は等しく芸術に心を動かされるものだと信じていた。それは人によって絵画だったり、陶芸だったり、彫刻だったり……種類は異なれど、何かしらできあがっているものに対しては一定の敬意を払い、尊重するものだと思っていた。
 僕は今でもあの瞬間を鮮明に思い出せる。僕たちはコンクールに出展する作品制作の追い込みをしていた。僕はSの絵に仕上げをかけていた。
 Sの傍にはあの丸花瓶があって、S本人はのんびりその丸花瓶のスケッチをしていた。
 酷い雨だった。それは僕たちにとってはありがいものだった。適度な雨音は雑多な脳の集中を研ぎ澄ませる効果があるような気がして、僕は筆をせわしなく働かせた。
 この日は美術の課題が終わらないクラスメイトたちが何人か残って、作品制作をしていた。が、もともと作品制作に興味関心のない連中はだんだん飽きてきたらしく、僕たちにちょっかいを出し始めた。先生が職員会議で不在だったのも不幸と言える。
 一人がSの丸花瓶に気がついた。
「なんだこれ、花瓶? お前か作ったの?」
 Sはそうだよ、と言った。
「おーい、みんなー! これSが作ったんだって」
 そいつはSの丸花瓶を高く掲げて、皆の興味関心を引きつけた。僕は気が気でなかったが、Sはもっと気が気でなかったことだろう。
 クラスメイトたちは「へー」「すげー」と感情のない声を発した。犬の無駄吠えが人になったらこうやるのかな、と僕は思った。
「はい、返すよ」
 そう言ったのはサッカー部のエースだった。そいつはSの丸花瓶――指紋や水彩絵の具で少し汚れていた――を、元のテーブルに戻そうとして、手を、滑らせた。
 あの美しい丸花瓶は、僕の目の前でゆっくりとテーブルに着地して、カシャン、と言った。
 距離にして十数センチメートル。たったそれだけの高さである。たった十数センチメートル。
 しかし、丸花瓶を壊すには、十分な高さであった。

 あれからどうなったのかを、僕はあまり思い出せない。僕の記憶はあの丸花瓶がゆっくりと落ちていき、かしゃんと音を立てるところで途切れている。Sは何も言わなかった。怒鳴ったり、泣き叫んだりはしなかった。もしもSがそうしていたら、僕はそれをしっかりと記憶に留めていたことだろう。何故ならSはあまり人前でそういった感情の示し方をしなかった。彼はいつも穏やかに怒り、穏やかに泣くのだ。
 ただ、クラスメイトたちは全員先生からがっつり怒られた。大事おおごとにならなかったのはSが彼らを許したからというのが大きい。Sは本気で彼らを許したようだった。とはいえ、「また作ればいいよ」と言われたときには、Sは今までに見たことのない顔で、冷たく言い放った。
 ――同じ作品モノは二度と作れない、と。

 Sは変わらず、学校に来た。部活にも参加した。僕が描いたSの絵は銅賞に入選して、Sはとても喜んでいたが、同時に恥ずかしがっていた。
「すこしイケメンに描きすぎじゃない? お前からは俺がこう見えてるの?」
 僕はその問いになんと答えればよいのか分からなくて、「そう見えた」と答えた。Sはアハハ、と気持ちの良い笑い方をした。
 更にSは、「今度、一緒に陶芸やってみない?」なんて言いだした。僕はそれも悪くないかなと思ったので、夏休みになったら陶芸をすると約束した。僕は陶芸に興味があるわけではなかったが、Sが僕の描いたあの絵を見るとき、彼は絵の中の彼が作り出そうとしている丸花瓶の始まりを、何とも切ない目で見つめるのだ。それを見てしまった僕は、Sの申し出を断ることなどできなかった。

 その夏休みに入る前のことである。Sの丸花瓶を壊したサッカー部のエースが、Sのことを呼び出した。Sが僕にもついてきてほしいと言うので、僕は了承した。
 教室に入った瞬間、僕は悲鳴を上げそうになった。
 Sの丸花瓶がそこにあったのだ。
「お前の作ったやつ、壊しちゃったからさ。接着剤でくっつけて直したんだ。みんなで協力して、な!」
 自信満々の彼の後ろには、力強く微笑むクラスメイトの姿があった。それを見た僕は、何故か強烈な吐き気を覚えた。彼らは一体何を思ってあんな顔ができているのか、僕には理解できなかったのだ。
 わざと傷を入れるとか、わざと泡を残すとかして、美を表現する技法がある。しかしSの丸花瓶についた痛々しい傷は美を損ねてしまう類のものだった。僕ですらそう感じたのだ。Sにとっては……。
「ありがとう」と言ったSがどんな顔をしているのか、僕は見ることができなかった。僕がSの顔をまともに見ることができないうちに、Sは明瞭に吐き捨てた。
「でも、壊れた花瓶が元に戻ることはないから」
 Sは丸花瓶を高く掲げて、そのまま手を離してしまった。丸花瓶は恐ろしく速いスピードで床へと降り立とうとしていた。僕はそこに丸花瓶の意志を見た。初めて身体にひびを入れたとき、丸花瓶は丸花瓶の可能な限り、完璧であった自分を保とうと藻掻いていた。しかし今の丸花瓶は、明らかに死に急いでいた。僕にもそれが理解わかったのだ、Sには理解わかからないなどということがあるだろうか?
 その答えは今、皆の目の前にある。

 僕たちの間に吹き渡る夏の生ぬるい風の中で。
 丸花瓶は、今度こそ粉々に砕け散って壊れてしまった。

この記事が参加している募集

#熟成下書き

10,579件

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)