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砂の街ブハラで迷子になった【ソ連最後の旅⑥】

サマルカンドだけでなく、ブハラというシルクロードの古い都に行けるということで、なんだか得した気分でした。ソ連という人工的な国に、イスラム文化が色濃く残る街。しかしというべきか、やはりというべきか。社会主義的な「ソ連時間」はここでも健在で、スケジュールが押しまくり、歴史的な建造物には、ほとんどたどり着けなかったというザンネンなお話。

↓のつづきです。


再び、飛行機が飛びません

ウズベキスタンの首都タシケントからブハラまで飛行機で約1時間。朝5時のフライトに間に合うようまだ暗いうち移動します。しかし、飛行場には明かりがついておらず、絶対に飛ばないだろうという気配がありありでした。案の定、飛行機は遅れているそうです。せっかく朝3時に起きたのにこの仕打ち。もともとそんなフライトなんて無かったんじゃないかと添乗員のキムラさんに聞くと、いや確かにそういう旅程になっている、と。仕方がないので、バスの中で朝日が昇るのを眺め、そしてぐったりと眠ったんでした。

飛行機が飛びました

予定では、とっくに着いてカラーン・モスクを見学し、バザールでご飯を食べ終わっている筈でした。7時間以上待って、昼過ぎにようやく飛行機が飛び、1時間ほどでブハラに到着。飛んでしまえば、あっけない。ところが空港で待っているはずの迎えのバスがありません。業を煮やして帰ったのかもしれませんね。砂漠気候なので、さすがに暑く、はしっこに停まっていた飛行機の影で、ぐったりと涼んで待ちました。

エレベーターが動きません

ホテルに到着して、部屋割り。荷物を持って、ぼーっとエレベータを待っていたんですが、なかなか降りてきません。先行して乗った人たちがどこかでひっかかってるのかもねー、と笑っていたんですが、さすがにおかしいと思った通訳のターニャさんが、ホテルスタッフを呼んできました。ターニャさんはどうなっているか調べてくれと言ってるようなんですが、男性スタッフはヘラヘラ笑うばかり。なんなら「階段があるからそっちを使え」と言ったような。

あ、やば…と思う間もなく、カーンとゴングが鳴りました。ターニャさんの舌鋒は、責任者らしき人を引っ張り出し、そして技術者っぽい人が呼ばれ、いやもう階段で上がってもいいですから…とも言えないワタシたちはロビーでぐったりエレベーターが動くのを待ったんでした。

夕暮れのブハラを歩く

ホテルから歴史地区は近いので、自由行動となりました。少し日が傾いてからの方が良かろうと、少し休んでから、友人と地図を片手に出かけました。向かったのは、「砂漠の灯台」と言われたカラーン・ミナレット。かつて、砂漠を渡るキャラバンが、この塔の明かりを頼りに街へやってきたそうです。

歴史地区には、土壁や土煉瓦でできた小路が多く、地図が大ざっぱなので、ちっとも目標にたどり着く気がしませんでした。日が少し傾いたといっても、空は抜けるように青く、そして暑く、さらに空気が乾燥していました。あまりにもノドが乾いたので、道端で売っていたソークを飲んでしまいました。ジュースという名の色付き水です。ワタシが選んだのは、ヤバそうな青。あれほどターニャさんに飲んではいけないと言われたのに。

ここが遺跡?

工事現場のようなところで、子どもたちが戦争ごっこをして遊んでいます。二手に分かれ、ガチで石を投げ合っていました。その向こうに、砂に埋もれたような遺跡らしきものがあります。青いドームの屋根が剥げています。なんだか塔も建っています。あれがカラーン・ミナレットなのでしょうか。でも、なんだかしょぼいです。

ブハラ

おそらく裏手に回っているのだろうと当たりをつけ、入口を探してうろうろしたのですが、探しているうちに、遺跡からだんだん遠ざかっているようです。

建物

歩いていると、木陰がある石造りの街中に出ました。まさに砂の街に浮かんだ瀟洒なオアシス。タクシー待ちをしているおばさんに、自分たちは今どこにいるのか地図を出して聞いてみました。すると、おばさんも地図を見てくれたのですが、首をひねっています。彼女は地図を手にして誰か分かる人がいるかと大声で呼びかけました。地図をのぞきに、わらわらと人が集まってきました。そして皆が一様に首をかしげています。どうも、この地図はここのものではない、と言っているようです。おかしいな、旅行者からもらった地図なのに。

道案内をしてもらう

皆さん親切に「あっちだ」「いやこっちだ」と言って収拾がつきません。おじさんが言い争いはじめ、なんだか違う話でケンカになってるようでした。それを呆れて見ていたおばさんが、するどい言葉で男たちを黙らせ「インツーリストか?」とホテルの名前を聞きました。うなずくと、2人の少年に声をかけて、つれていきなさいと身振りをしました。ソ連のウズベキスタンでも、おかんの仕切りは見事です。

少年たちは「がってんだ」とばかりに、私たちの先に立ち細い道をすいすいと通りぬけていきます。途中で、近所の悪ガキ連中がどうしたんだ、と寄って来ました。がやがやと後をついてこようとします。それを片手を上げておうように追い払いました。まるで私たちの保護者のように。

ブハラのこども

あっちだよ、と指さした先にホテルが見えます。なんだか得意げです。お礼に日本から持ってきた風船を上げました。ふくらませるとけっこう喜んで、風船と一緒にとびはねながら帰っていきました。

ホテルに戻ると、ソークの悲劇が私を襲いました。尾籠な話ですが、トイレの主となってうんうん唸り、そして灰になりました。道端で売っているものは決して飲み食いしてはいけない。戦う通訳者のターニャさんの言うことは大体ただしいのです。

そして翌日、あわただしくも朝からグルジア共和国の首都トビリシへ発ったのでした。あの、ブハラの遺跡はなんだったんでしょうね。そしてあれはどこの地図だったんでしょうね。

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