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どうしようもない

久しぶりに腕を切った。いつぶりだろうか。思い出せない。しかし最後に切った時のことを思い出せない程には私は自傷から離れていた。
カウンセリングの効果だろうか、それとも自制心が意識するともなく高まっていたからだろうか、支えてくれる人が増えたからだろうか。これも分からない。
とにかく私は最近自傷をしていなかったのだ。腕を見ればいつも赤っぽかった皮膚が何となく肌色に落ち着き剃刀は部屋の隅で眠っていた。

しかし今日私は眠っていた剃刀を叩き起こし腕に向けていた。戸惑いはあった。傷つけられることをしばし忘れた左腕をまたも血に汚して良いのか。これまで幾度となく”切りたい”という気持ちと葛藤した瞬間を無下にして良いのか。剃刀を握りしめた右手に私は問うた。頭で考えようとした。だが心は既に決まっていた。
剃刀のは先を腕に押し当て横に引く。5cmほど線を描く。切り始めた時にはなかった痛みが5cmの末端まで来ると丸い血だまりと共に神経を伝う。
「ああ、気持ちいい。私が、私が求めていた快楽はこれだ。美しいものを見る、美味しいものを食べる、それとはまた違った脳を突き抜けるような快楽。最近の私に足りなかったのはこれなのだ」
そんなエクスタシーに震えながら流れ出る血をふき取る。
そして再びその快楽に浸るために剃刀を肌に当てる。
もうそこには初めにあった躊躇などどこにもなかった。
ただひたすらに剃刀を動かし続ける。快楽を求めて。この快楽は私をがんじがらめにする現実世界との間に入り込みその縄を緩めてくれた。辛い事悲しい事嫌な事、全てから私を引きはがしてくれた。
腕を切る手は止まらない。切る場所が無くなってきた。
そこで私は横ではなく縦や斜めに剃刀を動かし始めた。止まらなかった。
私の目の前には、はっとするような赤色に染まったティッシュペーパーが積まれていく。それがうず高くなって崩れても私には関係なかった。

西日で明るかったはずの部屋が暗くなっていた。
私はふと我に返る。
そこには真っ赤になった腕と血だらけのティッシュペーパーがあった。
私はどうしようもなかった。
なぜなら我に返った私にとって目の前にある現実はただ滅茶苦茶に自傷をした何一つ変わっていない、ただ自分を貶めるかのように腕に傷をつけた愚かな”自分”だったからだ。
流したたった数十mlの血液では私に溜まりきった澱んだ感情を抜くことなどできなかったのだ。
先ほどまで感じた快楽も日が沈むと共に心の奥底へと沈んでいった。

「もう、どうしようもない」
私は呟き血の匂がする空気を肺に押し込んだ。

私の文章、朗読、なにか響くものがございましたらよろしくお願いします。