正解を求める教育の弊害

※自戒を込めて書きます。

色んな人と会話していると、自分の話していることが絶対に正しいとする人の存在に気づく。

そんな人いないと思うだろうが、例えば...

A「これ面白くない?」

B「いや、あまり面白くないな」

A「だって、こことか面白いじゃん。なんで分からないの?」

B「うーん...」

よく聞くような会話だ。これは一例だが、Aさんは「自分の面白い」が普遍的なものだと主張している。

無論、それが絶対的に正しければ素晴らしいことだ。

このように、自分の感性・意見・知識などが絶対に正しいと信じて疑わない人は結構いる。

僕の仮説だが、この考え方をしてしまう原因の一つは、教育が関係しているのではないかと思っている。つまり、正解が絶対的なものでそれ以外は不正解だとするペーパーテストのようなもので成績をつける日本の教育に問題があるのではないか?

その延長線上で会話においても自分の正しいことを証明しようと必死になる。自分の信念は一番大切なもので、それを否定されることを嫌うからだ。それは日本の教育が正解を求めさせる性質である以上仕方ないことである。

そこで大事になってくるのは、他者の考えを取り入れて自分を絶対的なものではなく、客観視する力だろう。また常に自分を疑うことも等しく大事なことだ。

この考えを持つと相手の意見を尊重して聞こうとするし、自分を反駁してくれることを大切にするようになる。

プラトンの著作の中で、ソクラテスは反駁を喜んで受け入れる姿勢で人々と議論し、真理に辿り着こうとしている。

このように他者を尊重することは、多様性を受け入れられる器を持つことに繋がり、積極的に相手から吸収しようという姿勢になる。

そのため教育は、勿論正解を追求する力は大事だが、正解のない問題を色んな価値観を持つ人々と議論し、アウフヘーベンする力も同じく大事ではないだろうか?

この力こそが今の日本に圧倒的に足りていない部分だと思う。だから自分の意見を持たないし、噂やニュースを鵜呑みにしてしまうし、時には何かに盲信してしまうこともある。

そのような教育を実現し、より議論が活発な主体的な国民で溢れた社会になるといいなあ。


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