「おいしい浮世絵展」に行ってみた
今年は元々東京オリンピックが開催される予定だったことから、日本全国で浮世絵展が開催されているらしい。先日、原美術館を訪れた後に、森アーツセンターギャラリーにて「おいしい浮世絵展」を鑑賞してきた。
雑多に勉強になった点や、気づきを書いていこうと思う。(※ネタバレ注意)
日本語の美しさ
歌舞伎を観に行った時に感じた日本語の美しさを改めて感じた。そもそも本展示会のタイトルにもなっている「おいしい浮世絵展」の「おいしい」が漢字ではなく、平仮名になっている。個人的な感覚だが、平仮名表記の方が柔らかく、流れるような美しい響きを持つような印象を受ける。
それに伴って、「おいしい」食自体もよりそそられてしまう。そんなタイトルの仕掛けで、潜在的に日本人が持つ和の心に訴えかけたようにも思える。
また、展示会で「かべす」についての解説があった。江戸時代に歌舞伎の観客が「菓子・弁当・すし」(「すし」も「寿司」よりも美しい響きを持つ印象を与える)を楽しみ、その頭文字を取って「かべす」というわけだ。初めて聞く「かべす」という響きに酔い知れずにはいられなかった。
以下はメモ的な文章になってしまうが、記しておく。
勉強になったこと
・日本橋は江戸城の外堀と隅田川の河口をつなぐ地点に位置していた。
・江戸の冬は今の冬よりも寒かった。
・当時の歌舞伎は早朝から夕暮れまで行う(江戸人にとって貴重な娯楽であるとともに、電気が存在していないがために夕暮れまでの公演だったのだろう)
・大首絵=役者をアップした浮世絵
・歌舞伎の芝居小屋は猿若勘三郎が日本橋と京橋の間に作った猿若座が始まり。歌舞伎は娯楽のなかった江戸にフィット×浮世絵ブーム(墨絵→多色摺版画)
・すしは、生魚を米と一緒に発酵させることで旨味を引き出す。酢の普及によって押し寿司→文政時代(1818年〜30年)には握り寿司ができた。
・元々、江戸前とは江戸で獲れた鰻のこと。江戸民は地産の鰻を自慢。
・すしや天ぷらなどの屋台が流行ったのは、屋内での家事のリスクを避けるため。
・幕の内弁当は『守貞謾稿』に記述があり、日本橋の万久というお店が歌舞伎役者や裏方、観客までに提供するようになった。
・ももんじ屋は、生類憐れみの令の中で肉を提供していた店の名残。猪や鹿は「山くじら」という隠語で提供されていた。
・天ぷらの発祥の要因→江戸は搾油の技術が向上し、灯のためではなく食のために油が使えるようになったため。
・江戸前三大花形→赤身・こはだ・穴子
・鎌倉時代には精進料理、戦国時代には茶の湯から発展した懐石料理などは庶民の手に届かなかった。江戸時代になると、生活基盤が安定し、庶民中心の独自の食生活が開花した。醤油や味醂などの調味料が果たした役割も大きい。
・府中は家康が晩年を過ごした地。
・【名店】 天ぷら→てんぷら近藤、鰻→野田岩、そば→総本家更科堀井、すし→柳橋の㐂寿司
・料理本として、『豆腐百珍』『料理物語』
気づき
・日本で古来から食されている餅に白い粉をかけるのはちょうど、歌舞伎役者が化粧で白塗りするのに似ている。
・浮世絵の歌舞伎図は舞台全体を描くもので、浮世絵にしては遠近法が緻密。
・浮世絵は西洋絵画と比べて動きがある。写実的ではない分、浮世離れした動きを表現。→ええじゃないか精神の予兆のような気もする。
・東海道五十三次にも描かれているように、東海道旅の宿では郷土料理が振舞われた。静岡は安倍川餅など。(石部屋というお店は歌川広重の時代から現役) 東海道の旅やってみようかなー、と思った。
・そばの香りは噛んだ時に喉の奥から鼻を抜けて感じるられる。基本私は麺を食べる時にすすらないが、香りを楽しむという意味ですする習慣をつけてみようと思った。
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