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母から学んだキャリアのこと

※デザインに関係ない、家族のお話です

私の母は、動いてないと死ぬんか?という泳ぎ続けるマグロのような、
くそほど働き者で、読書家で、勉強大好き人間です。

今日はそんな大好きな母の話です。


母は医師でした。もう70を超えてリタイアしましたが、
40年前の大学受験時は、非首都圏の国立医学部に女性115人中として10人くらいに現役で入った優秀な生徒だったみたいです(私とは雲泥の差)

そんな母は、大学卒業後に、大学病院で5年程研修医をしていました。

大学病院の研修医は、
待遇は日給何千円でこき使われまくり、日雇いシステムのため1年1回解雇され、その日は無給で働き保険もないんだよ~と笑って話してくれました。

え…超ブラック…なんでそんなところで働くの…って思ったら

大学病院はほぼ紹介でくる患者ばかりのため、
小さなクリニックでは見れない難しい患者症例が集まってきて、すごい先生の手術を見れたり、大学でしかできない最新の治療法や検査手段が多い等
要は、薄給な代わりに、めちゃくちゃ学べる場所らしいんです。

この話を聞いたとき、なんだか私に重なる部分がありました。修行のために、薄給でデザイン制作会社で馬車馬のように働いた数年間。。笑


驚いたのは、そんな環境で働いてたことももちろんですが、4人も子どもを産んだにも関わらず、当時、産休なんてものは「当然」なかったらしい。(育休も同じく)

そんな時代、母は研修中に兄二人を妊娠。お手伝いさんや祖母の力を借り育児をしながらも、
キャリアをあきらめることなく踏ん張り、その後は病院に30年ほど勤めあげたそう。

更にいうと、母は、私達の学費を全て出してくれました。


おいおい父は何してたのよ?という話なので少し触れると、母と父は私が小さな頃から別居、離婚してました。(数年前他界しました)

私がまだ小さい頃父が時々家に帰ってきていた頃は、
反抗的な事を言った姉に、馬乗りになって暴力をふるうのを母が止めに入ったことや、同居していた母方の祖母を出ていけと手を上げようとしたことを覚えています。
もちろんいい思い出も、1つや2つ幼稚園の時代の思い出ならあるのですが、悲しいことに今は、怒った顔や、不機嫌な顔、苦笑いしていた怖い印象しか残っていません。

父も医師で、その後10年以上会っていませんでしたが
難病で亡くなった父は晩年、ある病院の院長になっていました。

それを知った時、
えー!すごいじゃん、という思いと、
遠くにいっちゃったなぁ、という気持ちと、
他人なんだから関係ないよ、という色々な気持ちが

もやもやと、心の底の方にありつつも、
結果を出した父が、その時少しだけキラキラ眩しくも感じていました。


父と最後にあったときは、
10年ぶりに、学会で訪れた有楽町で一度会わないかと兄経由で連絡が来て、どこかのビルの2Fにあった、レストランでご飯を食べた時でした。

白髪増えたなあ、こんなにおじいちゃんだったっけ、とも思ったのですが、
悪気のかけらもなく、くしゃっと少年のように笑う笑顔を見せた時、自分でも不思議なくらい、

ずっと心の奥底に長年あった「父親」というものに対する憧れや、不完全燃焼だった、私を捨てたんだという複雑なもやもやした子どものままの気持ちが、あっけなくガラガラと崩れ去りました。
「なんだぁ」「ただの他人なんだな、ただの一人の男の人なんだ、この人」と、諦めのような冷めた気持ちになりました。

当時、病気で自分の余命が長くないと本人が思ってのことだと思います。
「何も父親らしいことしてやれなくて、ごめんな」


本人もそう言った通り、彼は私たち兄弟の高校、大学の学費も一銭も出さず、母が全て出しました。

それもあって子どもの頃はあまり贅沢をした覚えはなく、車もないし、普通の質素な暮らしでしたが、父はといえば、ゴルフ三昧で毎回ゴルフクラブや車を買い替えていました。
お金の面でも、私たち家族にとって、家庭では彼はお世辞にも理想的な父ではなかったと思います。

ただ、父も、母や私と同じように
自身のキャリアにおいて、きっと葛藤したんだろう、頑張ったんだろうな、と今は少しだけ気持ちがわかる部分もあります。
もちろん、だから許されるわけではないけど。

でも今、私自身がある程度経済的にも自立して、母になってもおかしくない年齢になって感じる気持ちは、父に対しての憎しみや怒りの気持ちではありません。

父のことを思い出す度、それ以上に、何倍も感じるのは、母へかけた苦労や感謝、母がどれだけ私達を気にかけて、大切に思って育ててくれたことです。

母の言葉で、ずっと心に残ってる言葉があります。
「父と離婚できたのも、私が自立できてたから。もしも私が主婦で稼ぎが無かったら、子どもを全員連れて離婚なんて考えられなかったと思う。」

学費についても、
「別にあの人に払ってもらわなくてよかった。きっとあんた反対されて、美大になんて行けなかったと思うよ。だからこれでよかったんだよ」とサラッと言いました。

小さいころから私が何を聞いても、
明確に理論的に答えてくれる母の博識さも、

自身のキャリアを平行しながら4人育て上げ、
学費をためらわず出して、
私の美大に行きたい思いにも何も言わず応援してくれた懐の深さも、

何年もかけて私たちに気づかれないよう父と話し合いを重ねて、説得し、離婚し、
また、乗り越えたことにも、
母の強さや決定は、いつも母らしく正しいなぁ、と感じました。

母は、長く務めた病院を辞めたとき、「国境なき医師団に応募しようと思ったことがあった」と、一度私に話してくれたことがありました。
当時高校か大学生だった私は、たしか何も考えずに「やりたいことやればよかったのに」と言いました。

母は、「そうだね」と言って、「けど私にはまだあんたたちがいたから」。

母は、産休がなかろうが、ポリープができようが、いつも自身のキャリアを諦めませんでした。でも、私達のために、諦めたことも沢山あったんだと思います。言わないだけで。

彼女は、母として、女性として、そして私の親友として、いつも私の誇りです。


そしてそれから10年たち、
「私って、母さんの足ばっか引っ張ってたよねぇ」というと、母はやはり笑って
「でもあんたたちがいたから、やってこれたんだよ。」とも言いました。

私にはどういうことか、よくわからないけど。
子どもができたらお母さんの気持ちがもう少しは分かるのかなぁ。


私のキャリアや考え方は、母から受け取ったものばかりです。姉には子どもがすでに二人います。
バリバリ仕事と育児をこなす姉も、母から受け継いだものを、今も継承し続けているような気持ちになります。

私は、今はスクールで色んな受講生に会う機会もあり、20代の方にも会う機会が多く、たまに自分自身を見ているような気持ちになったりもします。

今は多様性の時代で、女性がキャリアを持つこともあれば、専業主婦も主夫もいます。子持ちの方でも、育児も仕事も頑張っている方、必死になりたくてもなれない人も本当に沢山いると思います。

いつ、何歳で子どもができるか分かりません。
その日のためにも、自分のやりたいことを諦めないで、経済力とキャリアをひたすら積んでいたら、

きっと親になった時、もっと自由になれるのかな、と思うんです。


私は母のような、誰かを病気から助ける人にはなれず、経済力も母に比べたら頼りないけど、デザインという自分に向いている道を選んで、本当に良かったと今思っています。

コロナ禍だから今は実家にいるけど、母と沢山時間をこんなに過ごせる機会は、今後そんなにないかもしれない。
だからこそ、今を大切に過ごそうとおもいます。

お母さん、いつもありがとう!



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