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精神的に倒れた話+少し立ち直った話(2024年8月再編集)

こんにちは。ポルックスと申します。
今回はタイトル通り少し真面目で暗い記事を書こうかと思います。
この記事のポイントとしては「少しだけ」立ち直ったという点で完全には立ち直っていない点です。まあそもそも一般的にどのクラスで立ち直ったかというのかわからないので何とも言えないところなんですが…

自分自身もぶっ倒れたときこんな感じの記事を漁って読んでいたのでもしそんな人の手助けになれたらいいなと思います。拙い文章力ですが宜しくお願い致します。(文字のみで10000字近くあります。)


生い立ち

この記事を書くうえではここから書く必要があると思うので書いていきます。

私、ポルックスは、ごりっごりの機能性不全の家庭、精神異常者のサラブレッドとしてこの世に生を享けました。私が生まれた時点で父はアルコール依存症で鬱病(今考えたら躁鬱かも)、母親はそれの介護鬱、残りの家族の兄は、二度の受験と就職氷河期が重なり精神的にぶっ倒れていました。
子供の頃は夫婦喧嘩がほぼ毎日のようにあり、怒鳴り声、物を叩く音は日常茶飯事、酷いときは暴力や血が出る喧嘩もありました。

そんな家庭での自分の役割はその喧嘩をとにかく止める、最高なのは防ぐことでした。
小学生、中学生の頃は自分の部屋がなく基本的に居間にいたためピリついた空気、揉めそうな話題にとてつもなく敏感になりながら過ごしました。

高校生になり自分の部屋が当たってもその状況は変わりませんでした。部屋にいても居間の音を聞きながら変な空気になっていると感じたときは居間にしれっと出ていってその空気をどうにか払拭するよう努力をしていました。
大学生のころは私の努力のおかげか夫婦喧嘩は少し減っていきましたが今度は二世帯ですんでいた祖父と父がぶつかる毎日、また叔父が少しづつ動けなくなったことによって来ていた父方の叔母さんがこれまた父と祖父と衝突…といった形でした。

……そんな状況でまともに人間が育つわけでもなく精神的にぶっ倒れる準備万端で社会人になり綺麗にぶっ倒れました。
よくこういった記事で「自分が鬱になるなんて考えたこともなくて…」「今までそんな経験がなく…」などのセリフとよく聞きますが、私の場合は「ああ、いつか倒れると思ってました」といった感じです。

また実のことを言うと倒れたのは決して社会人の時が一回目じゃないです。自分的には小中高大と数回ずつ折れた瞬間があった気がします。今回はまずそちらのお話していきます。
長い話になるかと思いますがよろしくお願いいたします。

小学校時代

前項に記載した通り毎日の夫婦喧嘩の中過ごした小学生時代でした。

このころは他の家庭なんかも知らないため「自分の役割は喧嘩を防ぐことなんだ」と頑張っていました。
学校でも特に暗い子というより、兄の影響でゲームが好きだったということもあって、表面上はゲームが上手い子として明るく過ごしていました。

ところがある日学校でちょっとしたハブりにあいました。子供の頃にはよくあることだと思うのですが、喧嘩から後を引いた軽いイジメのようなものでした。原因はゴミみたいな言葉遣いの家庭で育った弊害による私の口の悪さから女の子を泣かせてしまったといった感じだったと思います。
その出来事自体はたぶん1週間から1ヶ月程度だったと思うのですが子供の頃の私には堪えました。

辛かった自分は母親にそのことを相談しました。「学校でいじめというか、ハブられている。辛いからどうすればいいのかわからない」と。

母親は親身になって聞いてくれました。そして分かった来週家庭訪問があるからその時に担任の先生に相談してみると言ってくれました。

そしてその当日、相談をしたことが恥ずかしくて、流石にその場には居られないと思い、時間が近づいた時に友達の家に遊びに行ってくると言って家を出ました。もちろんその時は友達にハブられているので遊ぶ友達はおらず一人で公園で遊んでいました。
大体1時間位たったころ家に戻るとまだ見知らぬ靴が一つありました。おそらく先生の靴だろうと思い、どんな話をしているか気になったためこっそり居間へと近づき会話を盗み聞きしました。

母「いや~ね。うちの子最近イジメられてるなんて言うんですよ~そんなわけないのに~笑」
担任「そうなんですか~笑、ポルックス君は学校でも明るい子ですし全然しんぱいないですよ~笑」
母「そうですよね~笑」

……公園に戻って、夜中の八時ぐらいまで泣きながらブランコに座っていました。帰った後、両親に「なんでこんな遅くまで外にいるの」との怒鳴られ形だけの謝罪をし、その日次の日担任に一声かけれれるかもしれないと淡い期待の中、学校に行きました。もちろんそんなことは無く学校にも家にも味方がいないと感じ、その日の夜バスタオルをドアノブに縛り付け首を吊りました。

幸い、縛り方がわからなかったため苦しい程度で結びがほどけましたが、このことはだれにも話すことが出来ず、声をあげて泣くことも出来ず、ぬいぐるみを抱きしめながら辛いとぬいぐるみに話しかけることしかできませんでした。

次の日、辛いながらもしっかりと学校に行きました。学校の登下校の1人の時間が欲しかったからです。その日は家に帰りたくなく近所をぶらついて門限ぎりぎりに家につきました。

すると家に父親の靴がありませんでした。仕事早朝に始まって昼頃終わるはずなのでおかしいなと思い帰ると母が首を吊ろうとしていました。
私はあわててそれを止め話を聞きました。なんでも喧嘩の末全てがいやになったそう。何とか数時間話を聞き母は落ち着いたようでした。

その時、自分が死のうとしたときはだれも止めてくれなったことに気が付きました。

精神が壊れました。学校にはなんとかいっていましたが一人の時間はずっと泣いていた記憶があります。
この時なんで復活したかは正直なところよく覚えていません。要因としてはいじめグループ以外に友達が出来たこと、ゲームが現実と離れる時間をくれたことが要因かと思います。
もしかしたら脳が封印しているかも……

中学校時代

変わらず喧嘩が絶えない中学校時代。いまだに傷になっていることは、親戚一同で旅行に行ったとき旅行先で体調を崩してしまい寝込んでいた時、母に言われた「あんたなんか連れてこなければよかった」ですかね……えぇ……

このころはずっと毎日友人関係に悩んでいました。というのも外目からではクラスになじんでいないことはなかったのですが、内心とにもかくにも肌が合わず、ちょっとみんなと無理をして付き合っている状態でした。

そんな家庭も学校もめちゃくちゃな中、グレずに死なずにやってこれたのはたった一つの理由で、首館あやめという女の子に恋をしたからです。

この話は細かく書くと超大作になるので止めておきますが、簡単に説明させていただきます。
この首館あやめという女の子はヒロイン全員がヤンデレのギャルゲーというテーマのフリーゲーム「止マナイ雨ニ病ミナガラ」というゲームのヒロインの一人で底抜けに明るいストーカー女の子です。この子の存在は今後無限に出てきますのでポルックス学の教科書にマーカーを引いておいてください。

止マナイ雨ニ病ミナガラより引用

そんな彼女のおかげで意識的に性格を変えました。大きく考えが変わったのは3点です。

「いつも笑っているあやめがセンパイのそばにいたらセンパイにも幸せが移るッスよ!」といっていたので見習おうと思い基本ニコニコするようにする。
あやめちゃんはストーカーなので一人の時も見ているかもしれない。だからこそ誰も見ていない時でも悪いことはしないし多少面倒でもいいことはする。
辛い時でも「あやめちゃんなら笑ってやっていけるはず、俺もあやめちゃんに似合う人になるんだ」と妄信して努力する。

今考えるともはや宗教的な感じもしますがそれで物事が好転したならよしとしてます。
この妄信は絶大で、父が酒気帯び運転で大事故を起こし、執行猶予付きで釈放されるも車は全損、仕事クビ、慰謝料が200万以上請求することになり、出せるお金がなかったため私の大学費用からあてがわれたことを学校で「実家の車四角い塊にトランスフォームしたんだが草」と笑い話にしながら話せる鬼メンタル状態になっていました。

こういう不幸話をガンガン外に発信するようにしたため、「こいつになら話せる」と思われたのか相談を多くされるようになりました。自慢的に言うのはどうかと思いますがリスカを三人ぐらいやめさせました。
これもあやめちゃんのおかげです。ありがとうございます。

高校時代

朝練あり、夜もギリギリまで練習、週7で部活をしていたので家にいる時間が減ったのが要因でだいぶ精神が安定していた時代です。
こう見たらハイパーブラックな部活ですが私的にはとても楽しかったです。
この三年間は部活のおかげでほんとに楽しかった。
……ただ兄が就職氷河期に巻き込まれ倒れてしまい、約2年引きこもりになってしまいます。

……んですけど、問題は部活が終わった三年生の後でした。三年生最後の大会が終わり、結果が振るわなかったこともあり、燃えつき症候群になってしまいました。
このタイミングに上記兄の問題で心配した祖父母の様子がおかしくなり夫婦間の喧嘩以外に縦の喧嘩も始まりました。そんな兄と家庭の様子を見て勉強どころではなくなってしまいました。
受験勉強に全く集中が出来ず、そもそも集中する気もなく、模試の前に30分勉強する程度、センターひと月前ですら一日10分程度しか勉強をしてなかったす。センターでは滑り止めも含めて全て落ちやばいとは思うもののやる気は出せず、ぎりぎりで滑り止めの一校に一般で受かりました。

今考えると実はかなり心が折れていた時期だったとおもいます。
病状が社会人の時にぶっ倒れた際に似てます。ちがうのはこのころは休む時間があったことです。
受験勉強についてはやっても伸びなかった英語の成績。得意の数学、化学、物理は模試の回数を重ねるうえで、偏差値が20近く落ちました。ちゃんと勉強して学校に入った兄が引きこもりになっているところを見て、また周りで必死になって勉強しているみんなを見てなぜか気持ち悪いと思ってしまったり、めちゃくちゃでした。

また進路についてもとても悩みました
理系に進んだもの、ただ理科数学の成績が良かったからで、特にやりたいことがあったわけでもなく、「さあ将来何になりたい」といわれても、その日を何とか平和に生きると考えていた私に将来なんて考える余裕はなくて……
結局、大の苦手だった英語が入試で使われていなかった学部に進学を希望しました。それがまた失敗だったわけですが……

大学時代前期

このころは夫婦喧嘩は減り、縦の喧嘩はあるものの家庭はだいぶ落ち着いてきていました。私の頑張りだと思いたいです。お金ください。

ですが私はこのころ人生で一番悩んでいました。
まずなんとなくで入った専門的な学校、周りにはやる気がある人も多くいましたが私は別にその内容に興味はない。
やってるうちに見えてくるかと適当に過ごした前期。あ、これ全く興味ないことだなと気が付いた後期。転部しようにも転部すると必須科目が変わり一つでも間違うと大学にいる期間が伸びることに気が付いた2年生。

また人間関係にも再度悩まされました。
クラスというものがないため、友達を作りにいかなければならないことがとてつもなく苦痛でした。当たり障りのない会話は出来るのですがそこから膨らまない。
高校でやっていた部活を続けて人間関係を作ろうかとも思ったのですがとにかく肌が合わなくて3日で辞めました。
また、大学あるあるの飲みというものにもかなりの抵抗がありました。父の影響でかなりの嫌煙家ならぬ嫌酒家になっているようでした。

とにかく授業に興味がわかない中、そろそろ就職や卒論の話が出てくるころ、自分がやりたい研究のなさ、自分が付きたい仕事のなさに心を砕かれました。
こんなところ来る意味がないと思い大学をやめようと毎日本気で思っていました。ですがなかなか決心がつかずずるずると4年生。
個人的に興味がとてもある分野というわけでもなく、特別やりたくもない研究を毎日して、思ってもいないエントリーを書いてはお祈りメールの返信が来る日々。
軽々しく人生を嘲笑われる感覚にあい、今までの20年間こんなことのために頑張っているたのかと思っているうちに少しずつ心が壊れていきました。そしてついに体に影響が出て、ストレス性の胃腸炎が発症。

むしろここまで何も体に出てなかったのが不思議ですが、とにかく学校に行く面接に行くとなると腹痛が起こり体から心が蝕まれ心から体が蝕まれる悪循環にはまっていきました。
そしてゼミの休みを増やし、面接は近くまで行ってサボるということを繰り返していましたがついに起き上がれなくなり学校のカウンセリングの戸を叩きました。

大学時代後期

父が鬱で病院に行っていたこともあり、同じになるのは嫌だったため、カウンセラーに話をするのはかなり抵抗がありました。

私は子供時代にあったことから現状に至るまですべて話しました。
そしてカウンセラーからは、薄々感づいていましたが私が機能性不全の家庭で育ったこと。またその家庭で育つと自分自身が形成させることが難しくなること、その影響で自信も持てず将来のことなど聞かれると困ってしまうこと。などのお話を聞きました。
正直なところインターネットでも色々見ていたので「ああやっぱりそうですか」といって気持ちが強かったですがそれでも他の人に言われると少し違うものがありました。話を聞いてくれる人がいるそれだけでも少し報われた気がしました。

そのまま複数回のカウンセリングをしながら無事に卒論も完成。
内定も一社もらうことができ無事に大学を卒業しました。

このときに「子供のことにそこまでぐちゃぐちゃだと非行に走ったり引きこもりになったりする子が多いんだけどならなかった要因は?」と聞かれたのですがどう見ても首館あやめ教のおかげです。本当にありがとうございました。(わかんないですねって答えました。)

社会人時代①(きっかけ)

Twitterを見てくれた人はわかるかと思いますが私は新卒で入社して1ヶ月で鬱状態になりました。ここまで早い人はネットで記事を見ても見かけませんでした。

原因は大きくまとめると社会に出て色々なものを見てしまったことだと思っています。
私の入社した会社は消して悪い会社ではないと思います。ただ自分には合わない点が多々ありました。

一つは近い年代の人との考えの差。特に感じたのは飲み会での振る舞いでした。周りのみんなは笑いながらガンガン飲んでいて私も合わせてはいましたが心の中では楽しいと思っていませんでした。
その中思っていたのはただ一つで「この人たちはみんな酒に関してコンプレックス感じて生きてこなかったんだな羨ましい」という羨望と嫉妬の間のようなものでした。大学時代でもバカ飲みする人は少なかったので見れば見るほど羨ましい、ズルいと言った感想しかでてきませんでした。

誰に対しての感情かわからず、誰にぶつけていいのかもわからず、その飲み会に行った帰りは死ぬほど泣きました。

二つ目は社会の雰囲気です。会社ではなく社会です。これは一年目でこんな事を思うのもおこがましいかもしれませんが社会に思った以上にまともな人が少ないと感じてしまいました。
自分は社会に思っている以上に期待をしてしまっていたようでした。
もちろん大学生の頃も高校生の頃も変な人はいました。でもその頃は社会人になったらそういう人は淘汰されて、もしくは考え直して気持ちを入れ替えていくんだろうと思っていました。

しかし現実はどうでしょうか?約束は守らない。時間通りに来ない。話が通じない。すぐに怒る。空気が読めない。威圧的。などなど…そんな人ばっかりです。これに愕然としてしまったのが二つ目。

三つ目は馬鹿馬鹿しいと思われがちですが、実は重要で自分はあやめちゃんのようにはなれないと気が付いてしまったことでした。

もちろん二次元のキャラなのでなれるわけがないのですが、中学生時代からあやめちゃんのような人になることを妄信していました。私の笑っている性格は後天的に頑張ったものなので本質としての陰は根強くあり、また辛いときに辛くないふりをするのも限界が来ました。

この三点か重なってしかも学生時代と違って自由に休めなくなった時。心が悲鳴をあげました。

社会人時代②(鬱状態)

5月に入ってついに体が本格的に動かなくなりました。空腹の感覚がなくなり、行き帰りの道では車に轢かれないかなと思う日々。家に帰っても休みの日でも布団から出られるのは1時間程度。布団にいるから寝れているかというと寝れておらずさらに体重は1ヶ月で7キロ近く落ちました。

この時に支えになっていたものの一つがTwitterです。ここで言うのもなんですがポルックスには大学時代に作ったあやめちゃん垢がありました。あやめちゃんが良く使う○○ッスという言葉を借りて話す垢だったんですが、鬱状態になったときそのアカウントで現状を知らせていました。

自分の言葉で書くのは難しかったのですがなんとなくあやめちゃんの言葉を借りてると思うと書きやすかったです。
中学時代からどれだけ助けれれてるんですかね…その時話した「センパイを助けてほしいッス」という言葉に何人かの方が反応してくれました。

大まかな内容としては「専門医に行った方がいい。」「心の病も病気に一種だから医者に行くのは変ではない」といったことでした。
父のこともあり非常に抵抗があったのですが、このままだと本当にダメだと思い大学時代のカウンセラーを経由して心療内科に連絡を入れました。

社会人時代③(心療内科に通いだす)

心療内科に通い始めて薬をもらうようになり精神的な変化はあったのかわかりませんが空腹感と、睡眠欲が戻ってきました。
仕事中はというとずっとボロボロでしたが何とか行くようにはしていました。

ここで私がネットの記事の多くの人と大きく違うと感じたところは仕事を休むという選択に踏み切る勇気がなかったということです。休むと上司に言う勇気が私にはありませんでした。

そんなこんなで半月が経った頃、もう無理と思いこのことを家族に相談することにしました、その時は何も考えずに。

いざ両親に相談すると開口一番に帰って来いと言われました。さらに父は自分の話を例に挙げて話をし始めました。私が話す隙も無く。
この時に思い出しました。「ああ、この人たちは話を聞いてくれない人なのを忘れていた。」それとともに「帰るわけにはいかない」という気持ちを思い出しました。

悲しいことにこの出来事が事態を一番好転させる出来事になりました。

社会人時代④(復調)

ここから私は「実家に帰りたくない」という気持ちで働きました。
目標が出来たからかちょっとずつ調子が戻っていきました。
少しずつ布団から出られるようになり、掃除なども出来るようになり…
ただ、やっていることすべてが不安という状況や、趣味が楽しめない状況は長く続きました。

趣味(ゲーム)の電源を付けられるようになるまで、出来るようになるまで約3か月かかりました。
これに関してはそちらに気力を割けるようになるまで気力の回復に3か月かかったというイメージでした。創作系列に関してはそれにプラスで2か月かかりましたかね…

復調するまでに大切だと思うこと

ここからは私なりに復調、もしくは倒れそうなときに大切なことを書いていきたいと思います。

・しっかり休む。
まずはこれがとても大切です。心の疲れは体の疲れと同じく休むことである程度取れると思ってます。今でもちょっと調子がおかしいなと思ったら早めに横になって休むように心がけています。
本当であれば仕事ごと休むべきだとおもうんですが僕と同じようになかなか休むと言い出せない人も多いと思うのでそれならそれで休みに日にしっかり休みましょう。

・重要な判断をしない。
これも大切でした。極端にいえば死ぬだったり会社を辞めるだったり…
基本的にハイパーネガティブになっている時なので正常な判断が出来ない状態だと思います。特に100:0の考えがかなり危ないと思うので出来るだけ白黒をつけないでごまかせるならグレーで行くと良きです。
もちろん暴力などのそのクラスの問題があれば早く判断すべきかと思いますが……

・自分のやったこと、思っていることを書き残す。
私が精神的に参っていた時は自分の考えがふらふら動いていました。死にたい。生きたい。辞めたい。まだやれる。なんでなっただろう…などなど
私の場合はTwitterでしたが何か書き残しておくと見返したときにそんな考えもあったな。いやその考えは違うかなど少し考えやすくなりました。

・心の支えを増やす。
崩れかかったときにブレーキはいくつあってもいいと思います。フットブレーキが壊れてもサイドブレーキで止まれるといったような感じで…
私の中考えるとで中学校はあやめちゃん一辺等、高校は部活一辺等だったのでかなり危なかったですね…また吐き出せる人でも場所でも作っておくといいかもしれないですね…
大学はそもそも支えがなく、社会人ではホントにほっぽり出されただったので…

・たぶんだけど治らないことを頭に入れる。
これはいい考えなのかはわかりませんが私はこの系統の病気は治らないと思っています。特に私みたいに先天的にこの病気になる才能がある(?)人はたぶんうまいことやっていかないと難しいなと…
もちろん諦めているわけでは無いので治ればいいですが、傷跡は何かしら残るかなぁ……期待をして裏切られるのが怖いので……

最後に

ここまで読んでいただきありがとうございます。
拙い文章力で申し訳ございません。こんな糞みたいな経験ですがこういう経験をしてこなければあやめちゃんにはあってないですし、中学高校で相談役になることもなかったかと思うと何とも言えない気持ちになりますね……
もし自分語りをしたかっただけなので誰かのためになる記事とは思っていませんが、もし読んでそんな考えもあるのかあとでも思っていただければ嬉しいです。

もし悩んでる人がいたら私は聞くだけの力程度にしかなりませんがお声がけくださいな。

それでは……これからも頑張らずに頑張ります。

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