「書く」という呼吸法

私にとって、「書く」という行為はずっと身近にあったように思う。誰に言われたわけでもないが、人生でそれなりに続いているのは「書く」ことくらいではないだろうか。

口下手で頭の回転も速くない。そんな私には、話すよりも書く方が性に合っているのかもしれなかった。

とはいえ、私の紡ぐ言葉は往々にして感情的で脈絡がなく、とっ散らかってしまう。推敲の"す"の字もないものだから、読み返して思わず頭を抱えるようなポエムをぶちまけた経験も片手では足りない。

おまけに、私の文章ときたら、書く手段によってもてんでばらばらな表情を見せる気分屋なのだ。

パソコンとスマホ、そして手書きのノート。この3つの表現パターンについて、備忘録として書き留めておきたい。

パソコンのキーボード

正直に言って、これが今のところ一番ストレートに私自身を表現できるツールだと思う。本当は「手書きで自分の思いを語る」ような丁寧さが欲しいのだけれど、どうにも私には縁遠いものらしい。

ただ、スマホよりも手書きよりも、指が滑らかに動くのはキーボードに向かいあった時なのである。

言葉が脳に浮かび、その通りに打ち出そうとする信号とほぼ同時に、キーを叩く自分がいる。感じたことをそのままアウトプットするイメージ。それでいて、どこか違和感があればバックスペースキーですぐに修正できるというところも、書きやすい理由のひとつなのかもしれない。

考えてみれば、学生時代に二次創作に熱中した時も、授業のレポートで唸っていた時も、私はパソコンで文章を書いていた。

今挑戦しているwebライティングでも、基本はパソコンありき。スマホでライティングする場合も多いとはいえ、言葉の出てきやすいパソコンの方がよっぽどストレスフリーに作業ができる。

このnoteだってそうだ。文章のつながりだとか、第三者目線での読みやすさを度外視して、ただ自分の心の赴くままに。自由に文字を振りかざすなら、私にはパソコンがぴったりはまっているといえるのだろう。

スマホのタップ

相性の良さはパソコンの一人勝ちだが、使用頻度でいうならスマホだって負けてはいない。むしろ、こちらの方が触れている時間は多いくらいだ。

なにせTwitterからInstagramまで、私の趣味嗜好が詰まった中身を持っている。ライティングでも随分とお世話になっている。

短い文章をぽんっと書くならスマホで十分。その瞬間の感情を端的に表現できるから、ある種の新鮮ささえ覚えることもある。

私の何気ないぼやき、どうしようもない苛立ち、行き場のないやるせなさ。指先からあふれ出す強い心のうちを、右ストレートフックで食らわせろ。

ふとここまで考えて、我がスマホが気の毒になった。常にリングでタコ殴りにしているようなものではないか?

とはいえ、感情の振れ幅の大きい私は、手加減するほどの思いやりを持ち合わせていない。あんまり好きじゃないんだけど、と言いながら何かにつけて頼りにしてしまうのだろう。

私のiPhone7は持ち主ガチャに失敗したのかもしれない。

手書きのノート

文字書きを自称するとしたら、「手書きが最も表現しやすい」といえる自分でありたかった。

しかし、残念ながら先述の通り、私の一番は手書きにあらず。

それどころか、一番うまく語ることのできない手段といっていいかもしれなかった。

とにかく、私は手で書くことが下手だ。字も汚いし、言葉はさらにまとまりを失くす。読み返すのが苦行なのも、手書きの文章であることが多い。

何故だろうか。考える主体は同じであるはずなのに、デジタルとアナログでこんなにも感覚が違うだなんて。

それでも、この違いが時に面白いとさえ思う。自分の中に3人の"わたし"がいて、好き勝手にしゃべり始めているような感覚。言葉のニュアンスひとつひとつも微妙に異なっていて、けれど本質は常に同じところにある。

息をして生きるということ

吐き出す手段は、別にひとつじゃなくたっていいのかもしれない。神様だってそんなルールを取り決めちゃいないはず。

「書く」ことで私は感情を吐き出し、呼吸をしている。生きていくにあたって、書かなければ枯れていくものが私の中にあるように思う。

もちろん、「話す」ことだって表現のひとつであるし、欠かせない行為だ。言葉を声に出すことの大切さも、また機を改めて書き出したいことのひとつにリストアップされている。

ただ、私の根幹を支えているのは「書く」ということ。だからこうして今も、思いの丈をnoteに綴っている。

同じテーマで書くとしても、スマホと手書きでは絶対に同じ文章にならないだろう。いっそ書き比べしてみたら、知らない私が見えてくるのだろうか。そんな風に思いながら、筆ではなくキーを押す指を止めることとしよう。




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