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zine「チェヴェングールとその周辺」を刊行

10月8日の刊行記念イベント@忘日舎から生まれたスペシャルな地下出版zine「チェヴェングールとその周辺」が完成しました!最良の副読本と自負しています。
書籍版は60部限定(ロット番号付き)、忘日舎のみで販売しています。入手されたい方はどうぞお急ぎください。なお、必要経費を除いた利益は、ウクライナ支援のために寄付します。

◇書籍版

◇電子版(PDF)

目次は以下のとおり。プラトーノフによる珍しいドストエフスキー論もzineのために翻訳しました(本邦初訳!)。

工藤順「プラトーノフの難点——ことばと翻訳をめぐる」
倉畑雄太「編集後記」
「翻訳者と編集者が撰ぶ 『チェヴェングール』、この一節」
石井優貴「噓を噓のままに信じること——「ユートピアを追い求める虚しさ」補遺」
アンドレイ・プラトーノフ(訳:工藤順)「ドストエフスキー(劇評)」
「怒りを洗練させること——古川哲さんとともに」(聞き手:石井優貴+工藤順)
「重なり合うレイヤー——清野公一さんとともに」(聞き手:石井優貴+工藤順)
「イヴェント参加者からの質問(抜粋)」
工藤順、石井優貴「あとがきのようなもの」

 *冊子デザイン=工藤順

すべての記事をぜひじっくり読んでいただきたいのですが、ここでは工藤のあとがきを再録します。

このzineでは、翻訳者・編集者・装丁デザイナー・解説者のそれぞれの目線から、『チェヴェングール』への/からのアプローチとなる「窓」をたくさん詰め込みました。以下のような作品・作家名がzineの中で挙がっていますので、もし何かしらにピンとくる方はぜひ一読されることをお勧めします。

mitski;マヤコフスキー;鶴見俊輔;森崎和江;ジュディス・バトラー;竹村和子;ブランショ;パゾリーニ;丸山眞男;『もののけ姫』;『天気の子』;『FLCL』;『トップをねらえ2!』;藤本タツキ;『チェンソーマン』;『ファイアパンチ』;『新世紀エヴァンゲリオン』;シェーンベルク『モーゼとアロン』;ストローブ=ユイレ;フローベール『三つの物語』;スラヴォイ・ジジェク;ドストエフスキー『白痴』;『ロビンソン・クルーソー』;『ガリヴァー旅行記』;ソローキン『青い脂』;バーベリ『オデッサ物語』;イギー・ポップ;クストリッツァ;The Fall (Mark E. Smith)

あとがき(工藤)

Ninety-nine percent of non-smokers die(*)

この冊子は、東京・西荻窪の書店「忘日舎」で開催した『チェヴェングール』刊行記念イヴェント(2022年10月8日開催)をきっかけに編まれました。イヴェントの趣旨は大きく2つありました。

まず一つには、十分に難解である『チェヴェングール』を読み終わった方・読んでいる途中の方・これから読む方に対して、作品世界へ足を踏み入れるためのいくらかの足掛かりを提供することです。結果として本冊子では、『チェヴェングール』から他の文脈への(またはその逆の)抜け道を多く提供できたと思います。これを副読本としてアプローチしやすい足掛かりを見つけ、『チェヴェングール』に(再度)挑んでいただけたら嬉しく思います。

もう一つには、『チェヴェングール』翻訳プロジェクトにどんなにすばらしい人たちが関わり、どんなにすばらしいお仕事をされたかを紹介することです。『チェヴェングール』はさいわい読者に広く受け入れられ、あたかもこの本が自然に発生したかのように、「翻訳が出た」という言い方を聞くことがあります。そのとおり受容していただいて何ら問題はありませんが、しかしパンクを基本的な態度とするわたしとしては、翻訳を我われが「出した」のだと突っかかりたい気分もあります(**)。良い物が良い物であるところには、相応の努力があり、人の労働があるということはあまり忘れてほしくないという気持ちがあります。それはさしあたって消費者には何の関係もないことかもしれませんが、それを意識することでただ消費することとは違う付き合い方が見えてくるとすれば、そこにある種のヒューマンな豊穣さが芽生える気がするのですが、どうでしょうか。

いま申し上げた二つ目の趣旨は、当日お話ししたかったもう一つのテーマにも関係があります。それは、この貧しき時代に(in dürftiger Zeit)翻訳者はどのようにあるべきだろうか、という問いです。『チェヴェングール』という本は、このように多くの方の手で支えられて初めて出生することができました。一年に何十冊も易々と翻訳を出す天才的個人の時代ではもはやなく、また長い目で見てそのような翻訳者のあり方はおそらく——社会にとっても翻訳者個人にとっても——持続的ではありません(それが悪いというのではなく、できる人ができるうちはやってほしいのですが、ここでは人間という生き物が、例えば「簡単に壊れる」というようなことについて言っています)。貧しくなりつづける社会の中で、しかし「文化」という仕事がいまだ意味を持ち、また持つように努力することの意味があるならば、私たちは私たち自身を持続させつつ、それぞれの立つ場所で、どうにかして「文化」を延命させていかなければなりません。

では、貧しき時代の貧しき翻訳者、特に余裕を持たない若い翻訳者はどうしたら「文化」に組することができるのでしょうか。『チェヴェングール』プロジェクト(およびそれに先立つ「ゆめみるけんり」の試み)は、一つの提案をなしえたとわたしは思っています。それは、すべてを一人で背負わないこと、仲間(依存先)を見つけることです。プロジェクトとしてたくさんの人を巻き込んでしまえば、一人ひとりは弱くても、その弱さはカヴァーしあうことができます。さらに、自分ひとりでは想像もできなかった高い場所に登り、想像を超えた景色を見ることもできるのだと、わたしはこのプロジェクトを通して学びました。そしてもっとも大切なことには、わたしの救援要請に対して、寛大にも最大限の熱意をもって応えてくださるすばらしい方々がおられました。このようなあり方もあるし、それは良いものであるということを、今後も実践をとおして伝えていけたらいいと思っています。

忘日舎の店主、伊藤幸太さんには、『不死』の刊行や「ゆめみるけんり」の活動からずっとお世話になりっぱなしであり、今回のイヴェントでもさまざまにご尽力をいただきました。今回のイヴェントでまた忘日舎に帰ってこれたことは大きな喜びでした。作品社の青木さん、倉畑さんにもお世話になりました。参加してくださった皆さまも含め、イヴェントに関わってくださった皆さまに心から感謝します。

工藤 順

(*)イギリスのバンドThe Fallの“Blindness”より。この詞には、思わぬ笑みを誘うような諧謔があります。「Smoking kills」という外国の煙草のパッケージによくある警告文を転がしたものなのでしょう。「非喫煙者は(全員)死ぬ」というのも当たり前すぎて笑えますが、「99%」が付いているところに明るいウィットがあります。残りの1%はどうなるというのでしょうか(不死である可能性があるのではないか?)——というところに、思わずはっとするような希望が見え隠れします。わたし個人の人間や文化に対する期待というのは、ちょうどこの歌詞のように、捻じれたものです。基本的にはどうしようもないものをベースとして、——たとえば『チェヴェングール』のような——信じられない奇跡が見つかる可能性が1%でもあるということへの信仰がつまり、「文化」なのではないか。関係あるかどうか分からないですが、「パンク」とわたしが言う時、例えば灰野敬二さんがライヴで「そんなもんじゃないだろう?」と絶叫していた姿がふと目に浮かびます。

(**)余談ですが、東京の電車では「ドアが閉まります」と言うところ、わたしが住む京都の一部会社線では「ドアを閉めます」とアナウンスする路線があって、主体性や意志が窺えることを非常に好ましく感じています。

「チェヴェングールとその周辺」というタイトルはよく考えずつけたものですが、「忘日舎」の店名の由来になった本の作家に自然に思い至ります。だからでしょうか、デザインも、ちょっと「沼」を意識した感じになっています。

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