恐るべきリケジョたち(最終稿)

 多少個人差はあるが、実験台は次々に意識を取り戻していった。気が付いたところは一○○メートル四方の中庭である。一方は建物の壁、対面は鬱蒼とした山林の壁、両脇は刑務所のような高い塀になっている。建物の壁には窓一つないので、だれもこんな庭があることに気付かなかった。庭土は耕されている。その上に、まるで野外イベントの観客席みたいに椅子が四○○整然と並んでいて、足は柔らかい土に埋まっていた。最前列中央に、あの一○人が座らされていた。拘禁椅子である。手首足首、腰にまで頑丈なプラスチック・ベルトが巻き付けられている。全員が身動きの取れない状態に置かれていた。
 彼らの目の前に舞台があった。舞台というよりは白く輝くテラスだ。後ろにドアがあって、ビキニ姿の女が五人ぞろぞろ出てきたと思うと、デッキチェアで日光浴を始めた。ピチピチとして、まぶしい若さだ。まだ五月だが日差しは強く、男たちはもちろん、女たちにも容赦なく降り注ぐ。ミドリが慌てて誰かを呼んだ。すると白いボーイ服を着た白髪のバトラーが出てきて次々にパラソルを開き、すぐにまた引っ込んだ。しばらくすると今度は盆に五人分のアイスティーを乗せて出てきた。女たちはサイドテーブルに置かれたアイスティーを飲みながら雑談を始める。たわわなブドウを見ながらワインをたしなむシャトー・オーナーといった感じの、セレブな雰囲気だ。

 タコはいつものように夢を見ている気になっていたが、夢であろうが現であろうが、女たちに話しかけなければ物事は進行しないだろうと考えた。まずは首を下に向けて拘禁されていることを確かめた。次に足の甲から下が土に埋まっていることも確認した。容赦なく太陽が降り注ぐ。動けない手足を見ると、体毛という体毛が若芽に変わっていた。
〝俺はいったい、何になろうとしているんだ〟と自問してから、〝植物になっちまうぞ〟と結論付け、頭にカッと血が上った。タコは二分ぐらいかけて心を落ち着かせ、それから緑のビキニ姿が愛らしいミドリに優しい声をかけた。
「ミドリさん。これはいったい何のまねですか?」
 するとミドリはニヤニヤしながら隣のマコに「まだ話せるわよ」といって、思わずプフッとふき出した。
「昨日のこと、覚えていらっしゃいます?」
 マコがミドリに代ってタコに聞いたが、その眼差しは軽蔑に満ちていた。
「覚えていますよ。俺たちを家に帰してくれる約束だった……」
「でも、それは不可能でした。残念ですわ。切除した皮膚が腐っていたんです。冷凍庫が故障してね。仕方がないので廃棄しました。だから、もう元には戻れません」
「分からねえなあ、どういうことだよ!」とトラが大きな声を張り上げた。すると、モナが急に立ち上がってテラスを降り、トラのところにツカツカツカとやってきて思い切りトラの頬を叩き、「お静かに」と優しい言葉で注意した。女たちが一斉にわらう。トラは驚きのあまり、その後は一言も発しなかった。
「つまり、もうあなたたちは植物になるしか方法がないってことですわ」
 今度はミドリが立ち上がり、サンダルを土に汚しながらモツの椅子までやってきて、両の手でモツの顔に生えた若芽を思い切り引き抜く。頬から緑色の血がほとばしり出た。
「イテテテテ、なにしやんでえ!」
「ほろほら、体中からこんなに芽が出ているわ」といって、パラパラパラとモツの足元に落とした。
「太陽を浴びて、光合成でいっぱいでんぷんを蓄えて、体中から芽を伸ばして花を咲かせ、受粉して実をつくるのが、これからのお仕事です」
「おいおい、話が違うじゃないか。俺たちゃ自給自足人間になるんだろ。光合成でメシを食わなくても生きていける人間になるんだろ。仕事ってえのはどういうことだよ!」
 タコが声を荒らげると、ミドリはタコのところにやってきて、二の腕の若芽を思い切りむしり取った。
「イテテテテ!」
「もちろん、こんなキモイもの、私たちはぜったい口にしません」といって、ミドリは同じようにパラパラパラと落とした。
「これがいったいなんに育つか知っています?」
「なんになるんだよ」
「小麦ですわ。秋になれば、あなた方の体中で小麦がたわわに実を結びます。でも、それを食べるのはあなたでもないし、私でもない。排除される人たちです」
「なんだよ、その排除される人たちっていうのはよ」
「人類の未来にとって必要のない人々です。間引きされるべき人々です。まあ、これ以上詳しい話をあなたたちに話す必要はありませんわ。だって、あなたたちは人間じゃなくて小麦なんですから」
「バカいってやがる。俺たちは人間だぜ」
「でも、あとしばらくすれば、おバカな脳味噌も小麦粉になってしまいますわ。植物にとって不要な組織はすべて分解・吸収されてしまうんです。もうすぐ減らず口も叩けなくなってしまいます」といってミドリはわらった。
「いったいなぜ、なんの恨みがあって俺たちをこんな目に遭わせるんだ!」
 ゾウが泣き声で叫んだ。モナがゾウのところにいって、「うざいわね!」といって頬を叩いた。するとミドリがゾウに近寄って、叩かれた頬を優しくなでる。
「恨みなんてありませんのよ。そんなものまったくないわ。でも、犠牲は必要なの。神様だって犠牲を求めるものよ。神様のために、自分の息子を差し出した男だっているんですから。つまり、あなたたちは生贄なの。人間の犯してきた罪を償うための生贄なのよ」
 心地よく響くミドリの声は慇懃無礼で、実験台を思いやる心なんぞ皆無だった。
〝そうか、俺たちはハメられたんだ!〟
 タコはようやく女たちのことが理解できた。
〝こいつら狂ったカルト集団だ。目的達成のためには平気で人を殺す殺人集団だ。俺たちは小麦にされちまって世界にばら撒かれるんだ。チキショウ、小麦にされてたまるか!〟
 タコは異様な叫び声を発しながら必死になって体を動かし、手かせ足かせを千切ろうとした。すると、ほかの連中も同じように叫びながら体を捩りはじめる。もちろん、むだな足掻きをしても体力を消耗するだけだ。
「やばいよ集団パニックだ。心不全でも起こされると計画は台無しよ」
 ミドリは少しばかりあせってマコにいった。
「精神安定剤が有効だわ」とマコは答えて、三人の看護師に指示した。
 ビキニ姿の看護師たちは大急ぎで施設内に戻ると、五分も経たないうちに白衣に着替え、注射器を持って再登場した。医療行為のときは白衣という決まりをしっかり守っているらしい。三人手分けして実験台の肩に次々と注射を打っていく。薬が効いたものか体力を消耗したのかは分からないが、注射を打ってから五分も経たないうちに、実験台たちは目をつむり、うめき声すら出さなくなった。

〝嗚呼、おいら若い女が好きなのに、こいつらなんでジジイを毛嫌いするんだろう……〟
 タコは意識が朦朧とした状態で、ずっと若い頃、夏に一人旅をしたことを思い出していた。場所は忘れちまったが、山陰地方のどこかの海岸で、上半身裸になって甲羅干しをはじめた。燦々と輝く太陽を浴びながら寝ていると、全身の皮膚の感覚が研ぎ澄まされて、皮膚細胞の一つひとつがポツポツと焼け死んでいくのを感じ、それがけっこう心地よくて、このままジリジリとローストされながら死ぬのもいいなと思った。若い頃からすべてに無関心で、働く気力に欠けていた。そのままずっと、焼け付くような無気力感に支配されながら、野垂れ死にすることもなく、なんとなく生きてきた。段ボール暮らしになっても、夏場は河原に寝転がって日光浴しながら、あのときの心地よさを再現し続けた。
“ああ気持ちいいぜ。このまま死んでいくのは本望じゃないか……”
 半意識状態の中で、全身の皮膚感覚が異様に研ぎ澄まされ、皮膚細胞から芽がすくすく伸びていくのが手に取るように分かった。同時に、体内に向かってズンズンと根が伸びていくのを感じた。風船ガムみたいにのび切った腹膜が、根に押されてパチンと破れた。腹腔内まで到達すれば、肝臓は栄養満点の肥溜めにちがいない。
「先生、いったい俺は小麦なのかい? それとも、小麦を育てる土なのかい?」
 タコはつぶやくようにミドリにたずねた。
「あなたは種麦を育てる母体であり、小麦そのものでもあるのよ。つまりあなたたちはようやく、社会に貢献できる存在になったんだわ」
 ミドリはそういうと、看護師たちに目配せをした。看護師たちはテラスから畑に降りて、手かせ足かせを次々に外していった。
「さあ、あなたたちを拘束するものはなにもないわ。いつでもここから出て行ってかまわないよ。でも、君たちはもう植物なんだ」
 ミドリはからかうようにいって、わらった。
〝ふざけやがって!〟
みんな最後の力をふりしぼって立とうとしたが、体が動くことはなかった。短時間のうちに、急速に植物化が進んでしまった。椅子に接触する部分からはツタのような根が生えて椅子に絡み付いていた。土に埋まった足からも根が出てしっかりと土壌に張り、ほんの一センチも足を持ち上げることはできなかった。もじゃもじゃに伸びた芽の奥の瞳が涙でキラリと光り、根から吸い込まれた水がほとばしり出て、口の中に流れ込んだ。そいつは涙なんかじゃなく、真水だった。
「社会貢献? クソッ食らえだぜ!」
 ゾウは渾身の力を振り絞って怒鳴った。しかし、水を流せるのも減らず口を叩けるのもいまだけだ。目や口の両脇からヤニが出てきて、目蓋も唇も埋まりつつあった。植物にとっては無用の器官なのだ。もちろん、耳も鼻も、心臓も肺も、その他あらゆる臓物も無用だった。そして彼女たちには、なによりも無用の人間の存在が許せなかったにちがいない。
「任せてちょうだい。あなたたちを無用な人間では終わらせないわ。地球上のあらゆる生物は、生きるために活動しなければならないのよ。それは義務です。義務なんです。だから、私が手をお貸ししますわ。あなたたちを英雄にしてさし上げます。堕落した人類を救う、最初の英雄にしてさし上げます」とミドリ。
「みんなみんな、人類の未来を考えなければならない時代が来たんだからね」とマコ。
「放っといてくれ。あんたらヒトラーか? 河原に返してくれよう。俺たちがなにをしたっていうんだ。ひっそりと生きることもできねえのかよう――」
 すでに声帯に毛根が絡まりはじめ、タコの叫びは女たちに届くこともなかった。そのうちタコは精根尽きて、残っていたわずかばかりの筋肉を弛緩させ、安楽な世界へと落ちていった。植物の世界……、それは大便をしに公衆便所に出向くことのない世界だ。小便をしに水辺に出向くことのない世界だ。腹を満たすために繁華街をうろつくことのない世界だ。
〝なんだそうか、こいつは俺たちにとって理想の生活じゃないか……〟
 タコが人間として思考したのは、それが最後だった。
  

 それから三年が経った。ミドリたちは、ほかのホームレスや職のない若者たちと次々に契約を結び、同じような手順で中庭のシートを満席にした。小麦たちは母体の栄養を吸収しながらすくすくと育ち、夏には青々とした葉を風になびかせ、秋になると小麦色に変身してたくさんの実を付けた。実験は成功したのだ。小麦たちが根を張った最初の一○株はすっかり養分を吸収され、ミイラになっていた。しかし、その遺伝子は子孫である小麦たちにしっかりと受け継がれていた。後方の若い株ほど穂数は少なく、時たまヒューという不気味な唸り声を発する株も見受けられた。退化した声帯が、そよ風を受けて振動するのである。
 いよいよ収穫の前夜となった。今年で三回目、種麦のストックも十分だ。彼女たちは収穫祭を催し、アメリカから二人の農場主を招くことにした。二人とも大農場主で、ミドリの信奉者でもあった。彼らはテラスに座って新種の小麦を眺めながら、シャンパンでミドリを祝福した。
「すばらしい。この新種はなんと命名されました?」とフレッドが南部訛りでミドリに聞いた。
「正式には新人類一号、ニックネームは悪魔の小麦よ」
「そりゃ、ピッタリな名前だ」といって、マイクがわらった。
「収穫した種麦はこっそりとアメリカに持ち帰ってくださいね」
「任せてください。で、うちの広大な畑の一画で大事に育て、どんどん増やしていきます」とフレッド。
「遺伝子操作をしないかぎり、ほかの小麦と交配させても実を付けることはありません」
 ミドリはいって、ニヤリとわらった。
「で、私の畑で収穫した小麦は粉にして、慈善団体にでも寄付しましょうか」とマイク。
「それはまずいわ。あなたの畑で採れたことがばれてしまう。あなた、警察に捕まりたくないでしょ。私も捕まりたくないし」
「いちばん安全な方法は、闇ルートに流すことですわ」とマコがいって、マイクにリストを渡しウィンクした。世界各国の密輸業者のアドレスが書かれている。
「ということは、ターゲットは世界各地に分散してしまう」とフレッド。
「それでいいんです。私たちのターゲットは不特定多数なんですから。仮にその中に、あなたの家族が含まれていたとしても、それは仕方のないことね。間引きっていう昔からの知恵よ」
 ミドリは試すような目つきでフレッドを見つめた。その眼差しには氷のような冷たさがあった。
「怖いですねえ。せいぜい、アメリカ国内で流通しないように努力しましょう」
 フレッドは薄わらいしてヒューと口笛を吹き、シャンパンを一気に飲み干した。その口笛に呼応して、後方の小麦たちが一斉にヒューとうめき声を上げた。
「グロテスクだな。で、この小麦を食うと?」
「小麦になっちゃうわ。このバケモノたちのお仲間になっちゃうのよ」といって、ミドリは畑を指差した。
「いったい、人類の何パーセントが間引きできるかは知らないけれど、風評が広まって小麦を食べない人が増えることは確かだな」とマイク。
「じゃあ来年はお米にしましょう」
 ミドリはいって、わらった。
「同じ手法で、どんな穀物にも?」
「もちろん。あらゆる穀物を汚染させれば、人類を半分に減らすことだって可能よ」
「すばらしい。これで、人口増加をリセットすることができる」
 今度はマイクが一気にシャンパングラスを空にし、バトラーにおかわりを要求した。バトラーはフレッドのグラスにもシャンパンを注いだ。二人は注がれたシャンパンを再び一気に飲み干してから顔を見合わせる。フレッドが目を丸くしてマイクに「見たかよ」と聞くと、マイクは黙ってうなずいた。青い二人の眼は恐怖で細かく震えはじめた。二人とももっと強い酒を飲みたくなって、バトラーにバーボンを要求し、そいつが来るやいなや一気に飲み干した。酒に強い男たちで、飲むほどに顔が蒼くなっていき、眉間に皺を寄せて沈んだ顔つきになり、一言もしゃべらなくなった。

二人は沈黙状態のまま畑の小麦を見つめていたが、マイクがフレッドに〝しゃべれよ〟といったふうなゼスチャーをしたので、フレッドは意を決したようにうつろな視線をミドリに移した。マイクは小麦の様子を注意深く見ながら、しかし畑まで降りようともせずに「いまは花粉の季節じゃないから安心だな」とつぶやく。
 それを聞いたマコが、軽くわらいながら「あなた、花粉アレルギーなの?」と聞いた。
「いや、別に……」
 しばらくミドリを凝視していたフレッドは、急に目を逸らして下を向き、少しばかりためらってからミドリに質問した。まるで門番が女王様にでも話しかけるような感じにおどおどしながら、声も震えている。
「こいつの花粉を人間が吸い込むと、健康上どんな問題が起きるんですかね? つまり、パンは食わなくても、鼻から入ってくる花粉は避けようがないからさ」
「花粉アレルギーの人は心配ね。でも、それは普通の小麦と変わりませんわ」
「君はいったい科学者なのかね?」
 フレッドは突然怒ったような口調でいい返した。
「どういう意味?」
 ミドリはフレッドの急変ぶりに驚いてその顔を見つめ、唇が震えていることに気付いた。
「だって、そうでしょ。そんなことは三年ぐらいで分かることじゃないからさ」
「そうさ、新種をつくり出したって、商品化されるまでは一○年以上かかるのが普通だ。不具合はその間に発見されることも多いんだ。最低一○年は観察する必要がある」
マイクもフレッドに加勢した。
「商品化するつもりでつくったわけじゃないわ」とミドリは反論する。
「そりゃそうだ。人間を小麦にしちまう毒草だからな。しかし、そいつをつくっている人間まで小麦にされちゃ敵わないんだ。俺たちには家族もいることだし」とフレッド。
「なんせ、悪魔の小麦だから、花粉にだってそれ相応の毒はあると思うんだ」とマイク。
「分かりました。つまり、花粉の安全性を証明すればいいわけね。マウスの実験なら、二、三カ月で結果が出るわ」とミドリは不愉快そうに答えた。
「じゃあ、結果待ちだな」とフレッド。
「結果が出たら、また会おう」とマイク。

 二人は椅子から立ち上がると、ろくな挨拶もせずに、タクシーで逃げるように引き上げていった。
「変な連中……」とミドリはつぶやいた。
「怖気づいたのかしら……」とマコ。
 二人は同時に、大きなため息をついた。

 植物園の門から研究所の玄関先まで、ミドリとマコは肩を落としながら並んで歩き、「チキショウ!」と同じせりふを叫び、ふくれっ面して顔を見合わせた。日差しが木葉を通して、二人の頬に鹿の子模様を演出した。二人は思わず立ち止まり、互いに相手の顔を凝視する。一瞬二人とも、全身が緑色になり切る前の男たちを思い出した。あの鹿の子模様は可愛かった……。しかし、なにか虫ずの走るようないやな予感がし、それがたちまち悪寒に変わった。小さななにかが、さわさわそよいでいる。地獄からやってきた小鬼のように〝ようこそ小麦の世界へ〟と手招きしているのだ……。

「ギャーッ!」

示し合わせたように悲痛な叫び声を発し、二人ともがむしゃらに走り出した。どこへって? ……恐らく、想定外の明日に向かって――。
                                     (了)


響月 光(きょうげつ こう)

詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。現在、世界平和への願いを込めた詩集『戦争レクイエム』をライフワークとして執筆中。

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎)
定価(本体一一○○円+税)
電子書籍も発売中

『マリリンピッグ』とイデアの世界

 『マリリンピッグ』の主人公アチャナは、海底に立ち昇る火柱の中で、イデアの世界の自分と遭遇する。イデアのアチャナの後ろには、幼い頃に空襲で死んでしまった両親がイデアとして立っていた。そしてその背景にはイデアの地球があった。アチャナは自分のいる地球にも両親が欲しいと懇願するが、現実の地球ではこぼれた水はコップに還らないことを諭される。それよりも、いまの地球を少しでもイデアの地球に近づけなさいと励まされ、イデアの火をトーチとして分けてもらってマリリンの丘を目指すのだ。
 イデア論を唱えたプラトンだって、最初は現実のひどい世界を見ながら、「善」を核とした理想の世界を想像したに違いない。プラトンによれば元々魂はイデアの世界にいたが、輪廻転生で下界に下りてきて忘れてしまった。しかし、現実の不完全な姿を見るたびにイデアの世界の完璧な姿を思い出すのだという。そして知を愛する者は、自分の魂を肉体から分離解放し、イデアの似姿として形作ろうとする者、本来のイデアに近づけようと努力する者であるという。
 イデアの世界から落ちてしまった人間たちは、それぞれの境遇で自分なりの勝手なイデアを想像し、努力していることも確かである。自己中心的イデア論の世界だ。アニメにでも出てきそうな万能の野球選手を目指して練習に励む少年もいれば、名医を目指して受験勉強に心血を注ぐ若者もいる。中には天国の王宮を目指してテロ活動に専念する過激派もいれば、アウシュビッツのような生き地獄から解放されることを目指す囚人もいる。イデアを失った囚人は同時に希望も失い、生きた屍のような状態になってしまうのだという。 
アチャナは年も若くて、知を愛する者とまではいっていないが、イデアの善に満たされた戦争のない世界を目指して駆け出したことは確かだ。彼女はイデアの両親に逢ってイデアの「幸せ」を目の当たりにした。それはいつもの夢と違わなかっただろう。両親の背景にはイデアの地球があり、それもいつもの夢にある背景と変わらなかっただろう。彼女が駆け出したのは、死んでしまった両親は戻らないが、死につつある地球はきっと戻ると信じたからだ。
 『マリリンピッグ』は、イデアの世界からかけ離れてしまった地球を、何とかイデアの地球に近づけようと努力する知的動物たちの物語だ。最近「人新生」という言葉が地質学的な区分の一つとして提唱されているという。プルトニウムやプラスチックが含まれる地層は、確実に現代のホモ・サピエンスだけがもたらした地層なのだ。人類が絶滅した後、未来の知的生物が新生代最後の地層からプルトニウムやプラスチックを発見したとき、かつて棲息していた人類の失敗をどう思うのだろうか……。
プラトンのイデア論を、大昔の非論理的な哲学であると一蹴してはいけない。プラトンはイデアの世界から叫び続けているのだ。
「いまこそ、すべての人々が知を愛する者として理想の地球をイメージし、一丸となって、その似姿に近づける努力をすべきなのだ!」と……。

ネクロポリスⅥ

老人は泣く男から離れると
岩に穿たれた小さな穴に出くわした
穴の底はキラキラと輝いている
泣く男がやってきて
「ピカドン教室さ、穴に耳を当ててごらん」と囁いた
授業中らしく、中から先生と子供たちの声が聞こえてくる

みんな科学の恩恵で生きているんだ
君たちを琥珀の中のアリさんにしてしまったガラス玉
これはいったい何ですか
ハイ教室の窓ガラスです
バンソウコウが張られていた薄っぺらなやつだった
爆弾が落ちるとビリビリ震えたやつだった
臆病なガラスが科学の力で水晶玉に早変わり
君たちの永遠の住処になりました
でも、窓からぼおーっと眺めていた景色はどこ?
光線の反射角度の問題だね
次元の問題かもしれないよ
違うよ、あれは蜃気楼だったのさ
君の見る景色と僕の景色は違うのさ

君たち科学的に考えろ
あの景色はとっくに蒸発しちまった
思い出と一緒にさ 瞬間だ
先生これって、科学の力?
何万度の熱を生み出す力さ
鼻くそから人間を造り出す力さ
パルスの空回りで、いろんな神様をこしらえる力さ
でも、時間だけは戻せない一方通行

先生僕たちはなんですか?
塵の一種さ カビも同然
だれかさんの脳裏に入り込んだ遠い昔の感傷さ
壊れてしまったDNAの化石と同じだ
しかし君たち科学の力を信じなさい
ひしゃげた細胞はいつまでも伝染続けるプリオンだ
生まれ持った頑固な遺伝子 石段を焼いた影と同じに
不気味な不気味なメッセージ
強いバイアスで怒り続けなさい
また来るピカドンの日まで…
ガラス玉がもう一度融け、ほら
みんな宇宙に飛び立っていく日だよ


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