「身近なおとな」が多様になったら
ちょっとした夢がある。
夢というか、時折ふと妄想してしまう、憧れのイメージみたいなものだ。
簡単にいうとそれは「気ままスタイルの週末カフェ」である。
家族と一軒家に暮らして、自宅の一角をカフェスペースとして区切って独立させ、週末だけ、そのスペースをカフェとして開放する。
カフェといってもお客さんは来たり来なかったりだろうから、売上がなくても成り立つくらいのゆるすぎるカフェだ。飲み食いをするための場所というよりは、ちょっと休憩したり、おしゃべりしたりする空間をつくりたい。
だからメニューは、ドリンクだけでいいかなと思う。もしくはドリンクと、ごくごく簡単なお菓子、くらい。できるかぎり廃棄がないように、日持ちのしないものは用意せずに、無理なく持続できそうなしくみを探したい。
ベースとなるメニューは、自分が趣味で買ってしまうような、いろいろな種類のお茶。旅行にいったら、地方特産の茶葉なんかも買ってこよう。
気が向いたときには、チーズケーキなんかを焼くのもいい。だれも来なければ家族で食べればいいし。限定12ピース、売れたら終了。そのくらいのノリがいい。
内装は、ウッディな感じがいいなぁ。天然無垢材を基調として、ちょっと木の香りが漂う空間なんて最高だけれど。まあ自然光がほどよくさしこんで、適度に開放的でくつろげる空間であれば、贅沢はいわない。
ロケーションは、そうだなぁ、都会ではないが、山奥でもない、郊外の土地がいい。空気はわりときれいで、風や緑が気持ちいい。窓からも、緑が目にはいる。
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書きながら、そんなそんな、とちょっと自分でも苦笑する。
自宅のスペースを開放どころか、いまは一軒家に暮らしているわけでもないし、望むような郊外に暮らしているわけでもないじゃないの。ねぇ。
それでも、妄想は自由だ。
週末には、ご近所さんや一見さん、いろいろなひとがぽつりぽつりと訪れる、そんな場所になったらいいなぁ。
そのころにはきっと学校通いをしているだろう自分の子は、そのスペースをリビング代わりに宿題をしたりね。
リラックスして談笑しているのももちろんいいし、そんな雑音をBGMに、ちょっとPC立ち上げてプログラミングしたりイラスト描いたり、楽しそうに熱中して仕事しているおとなたちもいたら、最高だなぁと思ったりする。
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自分がこどものころは、親や学校の先生だけが「身近なおとな」であった。
働くというイメージがよくわからず、結局大学3年生くらいになってはじめて、「会社に就職する」ということを自分ごととして意識した。
そう、その意識した当時は、大学を卒業して「働く」=「会社に就職する」だった。
それ以外の選択肢を知らなかったのだと、いまなら思う。
「とりあえず3年くらいはひとつの会社で働いて力をつけないと」みたいな、よくわからない縛りが自分をがちがちに縛っていたのだ。
ほんとうは、よかったのだ。それ以外の生き方を選んでも。
会社に入る前に、海外を放浪して見聞をひろめたってよかったし、いきなりフリーランスになってみたってよかったし、やりたいのならば起業したってよかった。その結果として痛い目を見たって、自分で納得して選択した結果であればべつによかったのだ。
でもそんな世界があることを当時のわたしは知らなかった。フリーランスなんて働き方があること自体よくわかっていなかったし、ライターという職種があることすら知らなかったと思う。
もし仮にちょっと知って、「就職しないでフリーライターになる!」と言ったとしても、親は反対しただろう。娘の意志を尊重したいという思いを持ちつつも、娘の将来を案じて「まずは1回就職したら」と言っただろう。親となったいま、その気持ちはわからなくはない。
ただ、結局わたしには普通の会社員はあわなくて、自分のスケジュールを自分で管理するフリーランススタイルがあっていた。
もちろん会社員時代に得たもの、たくさんある。やっぱり経験しておいてよかった、と思う。
でもなんだか煮え切らないのは、それが「他の選択肢もあるのを吟味したうえで『いまは会社員』というスタイルを選択した」わけではないからだろう。
自分が通ってきた道の上にいる自分も、おかげさまでなんとか楽しく生きている。だから後悔しているわけではないのだが、それでもやっぱり、すべての道が必須だったとも思えない。
ちょっと環境がちがったら、もうちょっと早い段階から、自分らしく生きられたんじゃないか、と思う。
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そう考えたとき、絶対的に必要なのが、親と先生以外の、おとなの存在だった。
大学3年生になって、さあ就職活動ですよと言われてはじめていろいろな「働いているおとな」に会うなんて、どう考えても遅すぎる。
もっとこどものころから、小学生くらいのころから、いろいろな職業のひとが周りにいてほしかった。
いや、ほんとうは、いたにはいたのかもしれない。
「◯◯ちゃんのお母さん」はフォトグラファーだったかもしれないし、「◯◯くんのお父さん」はもしかしたら映画監督だったかもしれない。その可能性はゼロじゃない。
でもその顔を見ることなんてほとんどゼロに等しかった。自分の親ですら、働いているときの顔を見ることなんてほとんどなかったのだ。
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「いろんな仕事をしているおとなに触れながら育ってほしい」なんていうのも、ある意味親のエゴなんだろう。本人が気乗りしないならば、押し付けにならないように、自覚しておかなきゃいけない。
でも自分は、そうやって育ちたかったなぁ。
週末カフェの妄想には、そんな気持ちも込められている。
両親の知人たちや、ときには初めましての多様な職業のひとたちが、フラットに集えるような気軽な場所。
この「フラット」さはたぶん、重要で。
こども中心のイベントで集えば、どうしても話題は子育てに集中しやすい。そこで見える顔は「◯◯ちゃんのお母さん」「◯◯くんのお父さん」だ。
それに、結婚していない友人にも、魅力的な生き方をしているひとはたくさんいる。むしろ、家庭以外の何かに熱中しているひとの話こそ聞いてほしい、と思ったりもする。
それなら自宅へ招けばいいじゃないか、と思う方もいるかもしれないが、普段家族の場所としている自宅へ招くというのは親しい友人じゃないとハードルが高い。頻度も限られる。自然と、親のバイアスがかかると思っている。
「開放している場所」があることで、カフェ利用はもちろん、特別なイベントをしたいときも多様なひとたちを呼びやすくなるんじゃないだろうか。
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いやいや、偉そうに語っているが突拍子もない夢である。
その夢にむかって動き出しているわけでもないし。ただの妄想だ。
まあでも、実現はしないかもしれないのだけれど、ちょっと口に出してみると、何か変わるかもしれないな、とも思う。「そのもの」じゃなくても、一回自分のなかで言語化することで、近しいチャンスが巡ってきたときに飛びつけるようにはなる。
一見、突拍子もないように思える思いつきの中には、そのひとが普段から考えていることだったり、たいせつにしたいことが潜んでいるものだ。
だからもし将来、子が突拍子もないことを言い出したとき、万が一わたしたち夫婦があまりにフィールド違いで、その突拍子もなさにたじろいでしまったとしても。
「おうおう、いいねそれ。じゃあまずこれやってみたら?」と言ってくれるような、多様なおとながそばにいることを願う。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。