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ごくろうさまの流儀

娘の歯ブラシは消耗がはげしい。

「ほらあ、カジカジしないの〜。シャカシャカするんだよ〜!」

大人の価値観でいくら言ったところでまあ、それはそれはかじりたいお年頃なのだ。

大人が歯みがきをする様子を見せたり、いっしょに歯ブラシを持ってシャカシャカさせたりして、一時はその真似をしてくれたりもするのだが、気づけばもう、ガシッガシッ!と力強くかじっている。

はあ、とため息をつきながら、まあでも、彼女には彼女の理由があるんだろうなと思って、それを眺めている。ブラシのかみ心地が気持ちいいのかなとか、感触がおもしろいのかなとか、歯茎がむずむずするのかなとか。

しかたがないので彼女用の歯ブラシは2本用意していて、1本はもう好きにかじってもらい、仕上げ磨き用は別に隠し持っている。最後にひざにゴロンと寝転がせてから仕上げ磨き用をサッととりだすのだが、たいていは目ざとくそれを見つけ「あ!そっちはどんなかみ心地だっけ!」と言わんばかりに歯ブラシをものすごい力で奪い取り、結局かじられるんだけれど。

そんなわけで、娘の歯ブラシは消耗スピードがはんぱないのだ。

* * *

だから歯ブラシを、大人のそれよりも頻繁に捨てることになってしまう。

きのうもその交換時期で、毛先が広がりきった歯ブラシを「もうこれは、ごくろうさましようか」と言って、「ごくろうさまでした」とゴミ箱に入れた。

ごくろうさまでした。

歯ブラシのような短期間の消耗品から、洋服、鍋、家具など長期間をともにするものまで。一定期間以上、なにかお世話になったものを捨てるときにそのものに向かって「ごくろうさまでした」と言うのは、わたしがこどものころから母に伝えられてきた習慣である。

歯ブラシ1本でも、ゴミ箱へ捨てる前にしっかりと対峙して、ごくろうさまでした、と言ってからゴミ箱へ捨てる。ただそれだけの、時間にすれば数秒のちっぽけなこと。

でもこどものころの癖というのはなかなか馬鹿にできないもので、わたしはおとなになってひとり暮らしをしていたときも、自分がお世話になったものを捨てるときは自然と、そのことばをつぶやいていた。ぼそっと、つぶやくようにだったかもしれないけれど。

いただきます、ごちそうさま、みたいな、言わないとなんとなく気持ち悪いようなものかもしれない。

* * *

自分がおとなになって「ごくろうさま」は目上のひとには使わない、「おつかれさま」をつかうのだと知ったとき、じゃあお世話になったものに対しても「おつかれさま」のほうがいいんじゃないか、なんてちょっと思った。

でも、「おつかれ〜!」は友人間でも気軽に使われていて耳馴染みがあるからか、「おつかれさまでした」と歯ブラシにむかって頭を深々さげるより、「ごくろうさまでした」といって歯ブラシに深々頭をさげるほうが、歯ブラシの苦労をねぎらっているような気になるのはなんでだろう。

娘に毎日「ガシッガシッ」とすごい力で噛まれつづけ、毛先がバラバラに開ききった歯ブラシをみていると、「ああ疲れたね」より、「ああなんと、ごくろうであったね、文句もいわず娘につきあってくれてありがとう」と、育児の同志として肩をたたきたくなる。

ああ、そうか。たぶん、距離が近いんだな。友だちや上司に気遣いをして「おつかれさまでした」というより、身内というか、自分の立場に近いと思うからこその「ごくろうさま」なんだ。自分と同じ時間を、同志のように支えてきてくれたものへのことば。

ランドセルや、学校の制服や、お気に入りのタオルや、割れてしまった思い出の食器や。自分の一部みたいに感じていたものたちにも、わたしたちは別れを告げていかなければいけないから。

そんなときにはこれからも、わたしは呪文のようにつぶやくんだろう。自分に寄り添ってくれた時を思いながら、感謝をこめて。そしてきっと、そんな相手を捨てる自分の罪悪感を、ちょっぴりうすめたくて、自分のために。

* * *

おとなになって、ひさしぶりに実家へ帰ったとき、母は「ごくろうさまでした〜」となにか消耗品をゴミ箱に入れながら、ふと言った。

「この『ごくろうさま』はね〜、お母さん、やってきて結構よかったと思ってるのよ! あんたたちが小さいときからやっていたでしょう。これはね、気に入ってる。お母さんの子育てで唯一、やってきてよかった習慣じゃない?」って。笑いながら。

自分の子育てなんていいかげんよ、失敗しちゃったなあ、もっとこうしたらよかったのかもねえ、なんていうのが常套句の母からの、意外なひとことだった。

無意識に吸収していたちいさな習慣に、そんな母の思いがこもっていたとは、知らなかったよ。

ねえお母さん。その文化、わたしの娘にも自然と伝わってゆくことになりそうよ。

そんなことを思って口元をほんのりゆるめながら、バサバサの歯ブラシに別れを告げた。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。