見出し画像

カフェ空間とnoteの親和性。

最近はコワーキングスペースで作業をすることが多かったのだけれど、ここ一週間ほど事情があってカフェメインで作業をして、改めて思った。

ああ、やっぱりわたし、カフェのほうが「向いている」

とくにnoteを書くという行為においては、圧倒的に、カフェだ。

* * *

カフェ空間は、雑音の具合がちょうどいい。

これは完全にひとによるのだろうけれど、わたしは、適度にいろいろなものが混ざりあった空間が好きだ。もっとも落ち着く。以前の記事で「雑多が好き」といっていた話にもつながる。

たとえばコワーキングスペースは、基本的にみな内容は違えど「仕事をするための場所」だ。

だからまず、静かである。みな、粛々と仕事をしている。そこにあまり「無駄」や「余白」は似合わない

ときたま、電話で簡単な会話なんかも聞こえてくることがあるけれど、その内容も「仕事」的なものだ(聞いちゃいかんと思いつつ、逆に意識してしまって、耳の端でぼんやりと聞いてしまう。ぜんぜん関係ない、他人の仕事の断片を垣間見るって、それはそれでおもしろいんだものなあ)。

一方でカフェには、多様性がある。まず、年齢層もこどもからご年配の方までさまざま。そして時間の過ごし方も、友人や家族、恋人と会話を楽しんでいたり、ひとりで読書をしていたり、PCやノートに向かって仕事や勉強をしていたりとそれぞれだ。

この前はスタバの大テーブルでPCをひらいていたら、前に座っていた観光客らしき韓国女子が地図を見ながらいろいろと韓国語でしゃべっていて、ところどころ「天神ホルモン」とか日本語の店名が聞こえてきて、ああランチの相談してるのかなあ、とか頭の片隅で思いながら、わたしは歯医者と美容院のどうでもいい話をパチパチと書いていた。

そのくらいが、どうも、ちょうどいい。

* * *

自分の脳みそにはなかった音がポン!と耳に入ってくる環境は、どうやらわたしの発想を広げてくれるようだ。

脳科学者じゃないのでしくみはわからないが、いろんなひとのいろんな雑音を聞いていると、脳が刺激されて、静かな空間では絶対に思いつかなかったであろうことをポン!と思いついたりする。

静かなコワーキングスペースでひたすら作業をしているときの脳の状態が、スーッ、スーッと、くしで髪をとかすように直線的なものだとすると、カフェなど雑多な刺激が入る環境でものを書いているときの脳の状態は、コーヒーカップに入った飲み物をぐーるぐーる、とかき混ぜているときのような、流動的で、他のものと混ざり合っていくような、そんなイメージだ。

* * *

だからたぶん、作業環境の選び方は、ひとによって違うのはもちろん、同じひとのなかでも、作業の内容によって違うのだと思う。

たとえばわたしの場合、締切間際で、すでに内容のある程度見えている原稿を書き進めるときは、むしろコワーキングスペースのほうがはかどる。決まった道すじの中を地道に、ゴールに向けて(蛇行しながらも大きく見れば)直線的に進む作業だからだ。

ちなみにそういうときは音楽も、歌詞があるものだと言葉が混ざって集中できなくなってしまうので、楽器演奏のみのBGMを、イヤホンで小さく聞いているときが多い。自分なりの集中スタイルだ。

一方で、たとえばnoteのように、テーマもとくにかっちりと決まっているわけではなくゼロから自分の発想を広げて文章を書く、なんてときは、もう、圧倒的に、カフェがいい。

そういうときはイヤホンもつけない。店内で流れているBGMや、ひとびとの会話や、歩く音や、カフェでプシュー!とスチームミルクをつくる音や、そんな雑多な音をぼんやりと、聞くとはなしに聞いている。耳をゆるやかに開放している、という感覚が近い。

そうしてさっき書いたように、入ってきた刺激たちが、脳内コーヒーカップのなかでぐーるぐーる、と混ざりあって、あたらしいものが生まれてゆく。ひとりで書いていたのとはまたちょっと違うトーンの文章がつづられてゆく。そんな気がする。

* * *

こういう、カフェのような雑多さを心地いいなあと思うたび、このカフェ的空間ってSNSだったらnoteだよなあ、だからわたしは他のSNSよりnoteが心地よくて、好きなんだなあ、と思わされる。

ずうっと前にもそんなことを書いたような、と思って探してみたら、見つかった(え、もう2年以上経ってる……「みんなのフォトギャラリー」もないころで、手描きイラストの苦心がうかがえる笑)。

“学生が参考書を広げてくれていたり、おじいちゃんが読書していたり、スーツのビジネスマンが商談していたり、お子さんを連れたママ友同士が話に花を咲かせてくれていたほうが、よっぽど落ち着く。

ああ、安心して、私も私のことをしよう、と思える。”

まさにこれだ。

noteでも、静かに小説やエッセイを書いている方もいれば、イラストや写真や音楽を発表する方もいるし、コメント欄でわいわいと会話をしたり、コラボ作品づくりを楽しんでいる方もいる。そんな雑多な音が聞こえてくる。ときに刺激をもらって、自分のなかにも新しいものが生まれてゆく。

そしてなにより、それぞれバラバラのことを好きなように発表していることを、許容してくれる空気がある。ジャンルやテイストが違っても、表現することに自由でいさせてくれる。

だから、ああ、安心して、わたしもわたしのことをしよう、と思える。

* * *

いまこれを書いていて思ったけれど、こう考えると少なくとも2年以上、noteはこの空気感をしっかりと、つくりつづけてくれているのだなあ。継続って、地味にすごい。

出版社や新聞社との提携や、運営チームの方々の努力によるめざましいカイゼンの数々。それ自体すばらしいなあ!と眺めているけれど、個人的に一番すごいと思うのは、常に新しい動きをとりいれつづけて「変わり」ながら、その根底では脈々と「変わらない」部分を維持していることかもしれない。

先日の日経新聞との提携の際にも、加藤さんがこうおっしゃっていたり、

深津さんがこうおっしゃっていたりする。

“大型の出資や業務提携があると、みなさん「noteのカルチャーが変わってしまうのではないか? 方向転換があるのではないか?」と不安になるかもしれません。

ご安心ください。noteの基本方針は今までのままです。明日から突然、ビジネスメディアに転身するようなことはありません。我々はnoteのカルチャーそのものを支持してくれるかどうかを、資本的系のときにも大事にします”

出所:「優れたクリエイターや作品を世プッシュしていきたいと思います」

会社としてそう思っていたとしても、それを絶えず発信しつづけてユーザーを安心させてくれる姿勢が、とても好きだ。

note、表層ではこれまでもいろいろと空気感の変化を繰り返してきているけれど、ゆるく長く使わせてもらっているいちユーザーとして、根底は変わらないと感じている。変わっていたら、ここで書きつづけられていないもの。

noteというプラットフォームを使わせてもらっていて、よかったです。

* * *

だから、今日も。

noteのなかで聞こえてくる雑多な音たちのなかで、ときにそれに刺激を受けながら、ああ、わたしもわたしのことをがんばろう、と思うのです。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。