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【だが、情熱はある】褒められて育った山里が、なぜクズなのか

「だが、情熱はある」がおもしろくて、毎週見ている。ドラマで見られる断片的な情報のみから、山ちゃんがなぜクズになったのか考察してみたい。

自己肯定感の低さのしくみ

山ちゃんが相方を非難しまくったり、しずちゃんに嫉妬する姿が毎回印象的だ。明らかに、自己肯定感が低いひとのすることだ。

ドラマで見る限り、山ちゃんの母親はなんでも「すごいねぇ」と褒める。テストで3点を取れば、「3点も取れたの、すごいねぇ」と、山ちゃんのことを肯定する。なのに、なぜ、山ちゃんはあんなに卑劣で卑屈なのか。

じつはこのケースは結構あると思う。

たとえば、発表会で上手にセリフが言えなくて、泣いているこどもを見て、「お母さんから見たら、すごくうまくできていたよ。かっこよかったね。次もあるから大丈夫だよ」。そんな風に励ますのは、一見やさしい親のように見える。

これが子どもが傷つく原因となり、自己肯定感の低さを生むとは、誰も思わないだろう。褒める母親のどこが悪いのだと。

ここで起きているのは、子どもの<悲しかった>という感情が、受け入れてもらえなかったという体験で、これがキズとなる(情緒的見捨てられ体験)。

キズにより、自己受容できなくなる

母親はもちろん、愛を持って接しているつもりだ。
ひと様の母親を非難することはできないし、するつもりもない。なぜなら、母親もまた、同じキズを負った元子どもだからだ。

おそらく母親自身、子どものころ悲しかったとき、「もう大丈夫だから、笑って」だとか、「赤ちゃんじゃないんだから、泣くのはやめなさい」などと、悲しい感情をそのまま感じ、受け入れてもらうという経験をしていない。

世代的に、<悲しい>などのネガティブな感情は悪いものだとしつけられているので、悲しい感情は、なかったことにして切り替えたり、ぐっとこらえる方法で育ってきているはずで、そもそも自分のネガティブな感情をそのまま受け入れることができない。だから子どもの感情にも寄り添えない。

ありのままの感情を感じる自分を受け入れてもらえないと、自己受容できない子どもになる。

なぜ山ちゃんは、卑屈なのか

山ちゃんは、こうして子どものころに、自分の感情を受け入れてもらえずに育った。気づいてほしい、聞いてほしい、受け入れてほしいという欲求が(そしてこれは幼少期に親から満たされるべきもの)、満たしてもらえないまま大人になってしまった。

現実を歪んでうつす赤メガネ

ありのままの自分を受け入れてもらえないという親との関わりのなかで、「ありのままでは、自分は足りないのだ」というメッセージを選択して受け取り、そのフィルターで世の中を見るようになってしまったのだ。

自分は天才、と頭では信じていても、顕在意識にのぼらない深い部分ではその自分を否定しているのだ。

世の中みんなが敵に見えても仕方がない。

みんな傷ついたまま大人になっている

世の中に卑屈なひとや、攻撃的なひと、陰湿なひと、たくさんいると思う。そういうひとを見たときは、きっと傷ついた幼少期を送ったのだな、と思うといい。そして、これは社会的、世代的に抱えているキズなので、多くのひとが多かれ少なかれ負っているということ、そして、そのキズは癒せるということを付け加えたい。

山ちゃんのお母さんのような母にさんざん褒められて育ったわたしも、自分を受け入れられず、自己肯定感の低い人生を送ってきた。

しあわせを見つけるのが上手で、変な自分のままでも自分を疑うことのない春日さんの育った環境が気になるところ。


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