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しんやの餃子世界紀行 Vol.75

「学歴ってなに?本当に必要?」

世の中というのはたくさんの矛盾を背負っている。

みんな大学進学を決めた時

「今後の人生を左右する!出来るだけ良い大学に行けば良い人生が待ってる!」

と言われて一生懸命に勉強して大学に入るのに、大学を卒業した後には

「学歴なんてひけらかすんじゃない!
学歴は人の良し悪しを左右しない!!」

なんて言われたりして。

いやいや。
四年前とかそこらにあんなに頑張らせておいてなんだよ。

いいじゃないか。
自慢させてくれよ。

気持ちはすごくよくわかる。

でも確かに、社会に出て学歴に囚われている人は使えない。

学歴って資格と同じなのだ。

漢検二級持ってるから漢字ならなんでも書けるわけではない。

脳は確実に経年劣化する。

資格=実務
でないように
学歴=人の価値

でないのは当然なことなのである。

でも、僕は大学をしっかり卒業したことはちゃんと誇りに思うべきだと思う。

少なくとも人は6歳から義務教育の中で生きていく。

幼稚園や保育園は親の自由意思であり子にその人権はない。

6歳から15歳までの間、人は義務に縛られる。

高校・大学・専門学校は子の自由意思であるが、今のこの日本においてはもはや義務教育のようなものだ。

日本人は平均的に6歳から22歳までの間、教育の義務の中で生きていくのだ。

そして突然

「あなた大人ですね」

って社会の荒波にぽいって投げられる。

社会に義務はない。

組織には義務はある。
基本的人権を守るための義務もある。

それ以外は自己責任の世界。

それが社会だ。

義務の中で人生のほぼを過ごした人に社会を泳ぐことができるだろうか。

いや、はっきり言って難しい。

難しいうちは声を大にして言えば良い。

学歴は高ければ高いほど、特別なのだ。

義務の中と自由な社会の差は、人知を超えたところにあって。

自由な社会では、義務の中で整理された才能ではありあり得なかった下剋上が起きたりする。

だから飲まれるのだ。

才能を整理されている内は才能とはいえない。

努力はすぐ人を裏切るし、自分は別に人より優れてないことを知る。

そして、学歴は人の何も決めはしないという結論に至る。

僕らはそんな理不尽の中に生きている。

だからこそ言いたい。

「では何故学歴は必要なのか」

よく

「学校の授業なんかどうせ将来の役に立たないのだから、やっても正直意味ない」

という人がいる。

確かにそうだ。

高校生でなくなって14年経つが、因数分解も墾田永年私財法も等速度運動もこの14年間で出てこなかった不要の産物である。

学校で学べる全ての公式たちや理論、解法のあらゆるエトセトラは無駄の産物であった。

ただ底辺Fラン大学を出た私だから思うのである。

この

「無駄であった」

ということを無駄と知りながら積み重ねた知識の量の差こそ、

「学歴」

なのだと。

そして、社会人になって思う。

社会には、あり得ないほどの無駄が溢れかえっている。

どれもこれも不必要な産物であり、自分の人生にとって活きることのない情報の集合体なのだ。

社会を縛る自由はこの「あり得ないほどの無駄」によって制限されている。

しかしどうだろう。

この無駄を無駄と知りながら、蓄積できると見なされた人間であれば逆説的に今後も無駄を蓄積できる。

縛られた社会においても結果を残すことができる。

そんな人だと判断されることはなんの間違いでもない。

だから学歴がある人はある人だけ、有利な職にだってつける。

これが当たり前のことだと知った時にはもうすでにしんやは遅かった。

だから僕は学歴を声高らかに叫んでいいと思う。

ただ先に述べたように、社会ではとんでもない下剋上を起こす輩がいる。

学歴を叫んでも、学歴には縋ってはいけない。

ただ、学ぶことができるというのは素晴らしいことである。

その先の人生は誰だって踏みはずす。

ただ、大きく踏みはずす可能性を回避する術を。

君たちは脳に叩き込んでいるのだ。

それってとっても素敵なこと。

学のある者が無い者を蔑むにあらず
学がない者が有る者を僻むにあらず

人であればみな比較されるが、上をひたすら目指せば良い。

そこに壁があれば登ればいいのである。

学歴に縋って立ち止まるな。

君たちの馬力は日本の仕組みが証明している。

学ぶことを、無駄を積む時間をやめてはいけない。

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