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悩んで学んで

大学の卒業が近づいてきた頃、僕は悩んでいた。希望企業への内定も出ている状況ではあったが、軌道に乗りだした音楽活動を継続するために、このまま院生となり大学に残りたい気持ちや、某ラジオ局の構成の仕事をアルバイトでもいいから続けたい気持ちが、着地点のない永久運動のように頭の中をを駆け回る状況が続き、僕を混乱させた。

考えた結果、母に自分の考えを伝えた。ひと通り僕の話を聞いたあと、電話の向こうで少し沈黙した。そして静かに「何でも好きなことをやりなさい」と、言った。僕は思い出した。母は昔からこういう人だったのだ。

僕のやることに対して(勿論、犯罪や人道に反することではなく)母はいつだって肯定する人だった。僕は5歳から9歳までの間に、3回の交通事故と交通事故以外に4回の何十針も外科手術が必要な大怪我をした。4年間で7回である。その全てが僕の向こう見ずで、怪我の予測などしない性格が招いた事故だ。随分と母は心配だったろうし、こころが痛かったと思う。大人になった僕に母はよく言っていた。「あなたが小さい頃、台所で夕ご飯の準備をしていて救急車のサイレンが聞こえると、すぐに表に飛びだす癖がついた」と。

中学生の頃、音楽にのめり込みエレキギターがほしいとせがんだ時も、自分のお小遣いで買うのなら父を説得してあげると言ってくれた。その後、ギターを手に入れた僕は、KISSの「デトロイト・ロック・シティ」のイントロをこれみよがしに母に聴かせ、「上手だねぇ」と褒めてくれたのが嬉しかったのを覚えている。

高校生の頃、家を飛び出したくてしょうがなかった僕は、北海道の厚床にある酪農牧場のバイトを雑誌で見つけ、母に夏休みを利用してバイトに行きたいと告げた。母はびっくりしていたが、その頃すでに入院をしていた父と相談をし、北海道に行くことを許してくれた。家を出る時に母は「必ず毎日電話をしなさい」と言い、お世話になる酪農牧場の方への手紙と菓子折りを僕に手渡した。家から駅に向かう道に出て少し歩いてから振り返ると、遠くに母がまだ立ったままこちらに手を振っているのが見えた。

いつだってそうだった。母は僕の意見や考えを否定する人ではなかったのだ。母が私に言ったことがある。私にも夢はあったが女性がやりたいことをできる時代ではなかったと。それでも父と出会い、3人の子供に恵まれ、皆が健康に育ってくれ幸せだと。

その時の僕にはわからなかった。時代や性別ではなくやりたいことがあったのであれば、それはやらない選択を母が選んだだけではないのか、と。

母は笑いながら「あなたの言うことは私には難しすぎるね。でも、何ひとつ後悔していないから間違ってなかったとおもうわよ お母さんの選んだ事は」と言った。

今にして思えば、僕は「後悔をしたくない」と思うが故に悩んでいたのだろうが、そもそも「後悔をしたくない」とは何なのだろうか?行動を起こしてもいないのに何を後悔するのか。僕の矛盾はここにあったのだろう。

悩むとは、その原因に対しての解決方法が思い当たらないから悩むのであれば、解決など目指さなければいい、と思うようになった。

individualism(個人主義)が悪いとは思わないが、discommunicationによる弊害は人の心を機能不全にさせる要因のひとつなのは間違いがないと思う。

それにより、悩みの対象となる事柄が昔より増えてきているのだろう。

僕はcommunication至上主義者ではないが、communicationを大事にしたい。そして、やりたいことをやるために悩むことはしない。

悩むことについて思うに、その結果に怯え、その思考の場所から跳ぶことができないのであれば、跳ぶ必要はないとおもう。関わる必要もない。僕は大きく深呼吸をしてから、一歩、足を踏み出すだけだ。酒を呑み、友と語らい、日々を楽しむ。

僕の考えが正しいとは思わないし、全ての人に当てはまるかどうかなんて知らないし、適当なこと言ってんじゃねーって思われるかもしれないが、1つ言えることは「人生は楽しい」ってことだ。それは間違いない。

結局僕は、大学卒業後に就職するも半年で退職し、なんやらかんやらうんじゃらかんじゃらの山あり谷あり紆余曲折があって、今に至るわけである。

な?人生捨てたもんではないだろ?

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