努力と納得感

頑張れる時とそうじゃない時、何が違うのかなって考えてみると腹の底から湧き出てくるようなモチベーションが関係していること気が付く。湧き出てくるモチベーションがあれば、勝手に動き出している。それがなければ、動き出しが遅い。じゃあ、なんで「頑張らなきゃ」って思ったのだろうと考え進めてみる。多分、周囲からの無言の期待やプレッシャーに反応したのだろうと思う。「このようにあるべき像」のために努力を強制させられたからこそ、気持ちが進まなかったような気がする。そのような期待に応えるためにする「努力」は本当に努力と呼べるのだろうか?それはただの「忍耐」ではないか?

努力は納得感から生まれる

どうしても実現したい夢や目標がある時、そしてその夢や目標の実現を心の底から望んでいるときに人は誰からも強制されることなく、「努力」をし始める。
ある人は、「理想の自分像」がモチベーションかもしれない。それは「学校の勉強ができる自分」であったり、「運動神経抜群な自分」であったりする。そのような自分のありたい姿(アイデンティティと関係している)を守ったり、実現するために努力をする。
また、ある人は他者の中にモチベーションを見出す。「○○のような世の中を実現したい」とか「○○の期待に応えたい」とかが当てはまる。

どちらにも共通している点は「目標に対して個人が納得をしている」ことである。この納得感が努力と忍耐を分けると思う。努力は、モチベーションが個人にあろうが他者にあろうが関係なく、本人に主体性を与える。一方で、「忍耐」には納得感もなければ、主体性もない。仕方なくとか受け身の姿勢で頑張ること強いられる。

部活動を例をあげてみよう。「部活動に入らなければならないから」という理由で部活をしている人にとっては、練習は苦痛でしかない。一方で、「勝ちたい」「優勝したい」「レギュラーとして試合に出たい」という心の底から湧き出てくるようなモチベーションがあれば、辛い練習の中にも小さな成長や進歩に高揚感を覚える。
営業ノルマを例にしてもわかりやすいだろう。「出世している自分」や「成績を挙げている自分」でありたいという明確な目標を心から望んでいれば主体的に自分できることを始めているだろう。「何となく頑張らなきゃいけない雰囲気だし」とか「会社の居場所がなくなるから」と言う気持ちだと、目標に向かう自己充実も達成感もない。残るのは疲労感だけだ。

本当の自分の気持ちを知ること

一番大切なことは、自分の本当の気持ちに気が付くことだと思う。周囲からの期待を敏感に感じ、無理に自分を合わせようとすると自己矛盾に自分が苦しむことになる。それが長く続くと「本当の自分」が分からなくなる。努力は「努力しようとして」するものではなく、勝手にしているものだと思う。心から望んでいる夢や目標に向かって努力をしているときの満足感は忍耐の先にある安心感とは全く違う。

本当に自分はそれを望んでいるのか?
まずはそう問いかけてみて、本当の自分の気持ちを把握すること。
湧き出てくる感情に合わせて生きることで、自然と努力できるようになるのではないか。


最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

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