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感性の可動域
2023年、印象に残った言葉のひとつにこれがある。
そして、気持ちはすごくうれしいけど、
わたしの意見を過度に肯定したりも
しないでください。
宝塚の一件について、七海ひろき氏が思いを語った時の言葉だ。
動画はこちら↓
(該当箇所は、12:05〜頃)
この動画、七海ひろき氏の筆舌に尽くしがたいほどの思慮深さにとにかく感動した。
そしてその中で「過度に肯定」という言葉にハッとした。
わたしも追いかけている人を「過度に肯定」しようとしているかも、と省みずにいられなかった。
以前、別の記事で「推し」「推し活」という言葉に縛られる辛さについて吐露したことがある。
思い返してみると、当時の葛藤には、自然と感じた違和感や相容れなさを押し殺して「過度に肯定」しようと息切れしていたことが要因の一つとしてあったように思う。
うーん。
もしかしたら誰かを傷つけてしまうかもしれないけれど……いったんこのまま書かせてほしい。
例えば、わたしに追いかけてる人がいる時、「その人が関わっているものは全部好き」とはなかなかなれない。
自分も人間なので、違和感を拭えないことや、素直に楽しめないことや、むむむ……それはどうなんだい?などと思うことだってある。
そしてそうした自分の反応にうしろめたさを感じてしまう。
全のっかりできないと距離ができてしまうようで、悲しくて寂しくなる。
だからついつい、どうにかこうにか「過度に肯定」したくなってしまう自分がいる。
こういうところで、自分はもろくて、危ういなあと感じる。
同調して安心したくて、いとも簡単に自分の本音を無視しそうになるところが。
他人のことは必死に肯定しようと努められるのに、自分のことはナチュラルに無視できちゃうところが。
そういう意味では、七海ひろき氏の「過度に肯定しないでください」は、救いでもあった。
あ、肯定できなくても許してくれるんだ、と。
「ファンたるもの(すべてを愛でてなんぼじゃ)……!」
みたいな、過剰な力みがほどける感覚があった。
そういえば、最近やめたことがある。
音楽や映像や物語にふれる時に、作者のインタビューを先に読むのをやめたのだ。
なぜなら、作者の意図や思いを先に知ってしまうと、「そこをめがけて感想を抱こうとする」自分に気づいたからだ。
自分の中に自然とわき上がる感情や、脳裏に浮かんでくる景色や、流れ込んでくる音や色や温度やさまざまな感覚、そういう芽吹きにフタをしてしまうような気がするのだ。
つまりそれは「感性の可動域」が狭くなるというような、そんな感じがして、もったいないなあと思ったのだった。
だから最近は、作品にふれて自由に感じて味わった後に、答え合わせ的に作者のインタビューやら投稿やらを見ることにしている。
2023年は、迷って我慢して悩んでもがき苦しむ時間が長かったように感じる。
もちろんそれに負けないくらいに素敵な時間もあったにはあったが。
それが終盤になってやっと、素直な感性や、まっすぐな欲求や、自分の内なる声に気づけるようになってきた。
ここまで緊張をほどくまでに、ものすごく時間とスタミナを要した。
だから、2024年はこの調子で心のストレッチを続けて、等身大の自分を愛していきたい。
過度に肯定も否定もせず、純粋に「感性の可動域」を広げられるような、そんな年にしていきたい。
……というようなことを、どうやら定期的に考えているみたいだ。
ひとまず、今日が仕事納めだったので、一区切りとして書き残してみた。
ようやく明日は大晦日。
やっっっと、ここまできた。
おつかれ、わたし。
よーうし、もうひと踏ん張りだ。
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