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好きに、自由に、踊ってゆれて

わたしね、5/18にサカナクションのライブに行って、自分はどうしようもなくひとりなんだと思いました。

あの会場で、自分がひとりぼっちであることを、やっと認められた気がした。

わたし、ずっとどこかで「ひとりぼっち」を嘆いてはさびしさに抗っていた気がする。

でもね、サカナクションの演奏の中にいたら、もう認めざるをえなかった。

いやひとりがいいんだよな、わたしはこれで生きてきたし、これが自分のしあわせのあり方だし、今のところこれが最高の状態だよな、って。

あのセットリストを泳ぐように浴びながら、そんなふうにひとつひとつ確かめるような時間をすごした。

いまの自分自身に妙に納得できた、この心象が腑に落ちた、自分の輪郭や境界線が「見えた」というような、自分自身との邂逅があった。

あの日からずっとふにゃふにゃしてるのだけど、それは急にほどよく力の抜けた心身に脳が追いついていないというような感じで。

慣性の法則みたいなもので、これまでに染みついた心身の慣れやクセが、まだあたらしい自分に追いついてない、みたいな。


でもたしかに、わたしは今、やっとあたらしい朝を迎えられた気がしている。

朝がきたら、いずれは日が暮れて、また夜を迎えるわけだけど、いくつもの夜を生き抜いてきたわたしの30年ほどの人生の中で、ひときわ忘れがたい夜明けのひとつをサカナクションに体験させてもらった。


拍手と雨音

拍子ってこんなにも雨の音に似ているんだ、って人生30年にして初めて気づいた。

オープニング映像は雷鳴から始まるのだけれど、それが流れると、サカナクションの登場を待ち焦がれたフロアからは拍手が沸き起こったの。

でね、雷鳴はしだいに雨音に変わっていくのだけれど、その雨音が、鳴りやまぬ拍手とグラデーションのように混ざり合ってそれはそれはもうなんともいえない素敵な空間になった瞬間が冒頭にあって。

開幕早々にその光景に胸を打たれてシビれちらかすなどした。

拍手って、こんなに雨音に似てるんだって感動した、これ書くの2回目だけれど。


人の声はそれだけで音楽

どのタイミングだったのか具体的には思い出せないのだけれど、客席で聴いたお客さんたちの声の混ざり合いが、それだけで音楽だなと思った。

あちこちから声がして、それらは全部ばらばらのはずなのに、全然ノイズって感じがしないな、ステージの演奏と重なっても曲の一部に聴こえるな、なんか心地いいな、そんなふうに思えたのが不思議だった。

これは次に書くことにもつながるのだけれど、サカナクションがつくってくれる自由な空間が、その調和を生み出していたんじゃないかな。

それぞれに自由でばらばらなほうが調和がとれるって、不思議よな。

ステージに投げかけられることばがどれも、あったかかったなあ。


自分のステップで自由に踊って

一郎さんがくり返し言ってたこの言葉。

最近、フェスに出演した源さんも同じようなことを言ってて話題になっていたけれど、わたしはこういう人たちにちゃんと出会うし、ちゃんと惹かれるんだよな、と再確認した。

「自由に踊る」ってワード、ほんとうによく出会うし、折に触れて心をほぐされるこの数年。

「自分のステップで」

「自由に踊って」

「もっと自由に!」

あれから、お守りのようになんども唱えて過ごしている。


帰り道は月を背に

ライブ当日は明るいうちから、半月をすぎたくらいの白い月が青空に浮かんでいて。

で、ライブ後の帰り道は、夜空を煌々と照らすぷっくりした月を背に受けながら、広瀬川を渡った。

その、月に見守られながらサカナクションの音楽に浸れる1日のなんと尊いこと。

このライブに行くにあたって改めてサカナクションの曲をあれこれ聴き直したのだけれど、今のわたしのお気に入りはこちら。

サカナクション - 三日月サンセット

山形の家につくころには、その月もかなり西にあって。

あの日サカナクションの音楽と眺めたどの空も、夕暮れも、月も、花も、どれもほんとうにうつくしかった。


「朝はくるのか」

これが今一番書きたいことなのだけど。

「朝」がなかなか来ない時期ってある。

「明けない夜はない」のかどうか、わたしにはまだ分からないし、正直なところ「明けることのない夜」というか「いつまでも夜のままの夜」もあるんじゃないかって思っている。

でも、今回、サカナクションにはあたらしい朝を見させてもらった気がしている。

これについて、まだ言い表しようもない激情のなかにいるのだけれど、まさに今の自分がそんな感じなんです。

客席から見えたあのステージは、まさにあらたな朝日がのぼってくる東の空のようでもあったし、いつかの沈みゆく西の空のようでもあったし……あの向こうにたしかに何かを見たのだけれど、それはまだ言葉にできてないです。

今回のライブ、あたしゃけっこう泣いてしまってたのだけれど、中でも肩を震わせて嗚咽を押し殺すくらいにぶわっときたのがこちら。

サカナクション - ルーキー

ここで歌われているのが、

あとどれくらいで
朝が来るのか

冒頭でこれを歌われた時、わたしはもう涙が止まらなくて。

うん。

やっぱりね、当たり前に朝が来るなんて今のわたしには思えないんだよ。

夜は夜だし、朝は朝。

朝がくるには、太陽が必要で、その陽が昇るには地球みたく自転してたり公転してる必要があって、さらにその陽の光を見るには目をひらいていなきゃならなくて、浴びるにはカーテンを開けたり外に出なきゃならない。

でも「心の夜」においては、太陽も自転・公転も目覚めも、当たり前には叶わないことだってある。

サカナクションは、特に一郎さんの詞は、そういう夜の長さや、闇の深さや、いつ来るかわからない朝を待ちわびる何ともいえぬ情感を知っている。

それに救われるんだよな。


サカナクション - アイデンティティ

どうして まだ見えない
自分らしさってやつに
朝は来るのか?

サカナクションは、夜や月や夕暮れや雨を眺めながら踊るわたしの隣にいてくれてる。

一緒に「朝」を待っていていくれる。

あのライブ会場で、今かかえてる「夜」も、いつかの「夜」も、目の前の「夜」も、どれもをこれでもかと踊り明かせた。

そんな気がした。

なんだか、宇宙というか、まさに深海の奥底にいるようだった。


「ビールを飲んでみようかな」

あの日から、1日の終わりによく聴くようになったのがこちら。

サカナクション - シャンディガフ

ビールを飲んでみようかな
ストーンズジンジャーを入れて
飲んでみようかな

侘しさを抱えながらも「何かしてみようかな」と思わせてくれる一曲。

わたしはビールじゃなくて、「あの曲を聴いてみようかな」とか「あの映画を見てみようかな」とか「あのお店に行ってみようかな」とか、そういうのなのだけど。

『シャンディガフ』で特に好きなフレーズがこちら。

最後に僕が信じたのは
少しの愛と
少しのだらしなさかな

この歌詞が一郎さんのお声で歌われると、色を見失った心の水面に鮮やかな一滴が落とされるようで、なんともいえなくやわらかくあたたかく穏やかな波紋が胸に広がっていく。

そうして『シャンディガフ』と終わった1日を確かめて、また次に進めたりして、日々を重ねています。


あたらしい自分

一郎さんは、「あたらしい自分」「あたらしいサカナクション」という表現をくり返していた。

「以前のように」とか「昔みたく」とか「元に戻って」とかじゃなくて、「あたらしく」という考え方。

この考え方を一郎さんに教えてもらってから、わたしはすごく呼吸がしやすくなった実感がある。

あのライブ会場は夢みたいな特別な空間だったのだけれど、あれを知ってからのわたしの目の前の日常は、やっぱり以前よりも感触が確かで、自分の心の軸もつよくなれた気がしている。

“turn”

このツアータイトルのとおり、わたしはサカナクションの最高の瞬間を目撃できたのだとしみじみ思う。


朝がくるたびに生まれ直して、何度でもあたらしいわたしで、また今日を生きてみようと、そんなふうに思わせてくれたライブだった。

と、感想を書くに10日以上経っちゃったな。

まだまだ言葉が追いついていないものがあるけれど、いったん。

今日の山形は雨。

あの会場で聴いた万感の拍手と熱情を、また思い出すなどしている。






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