聖書のお話(シリーズ"平和"#4)「恐怖から生まれる怒り」2022年夏
はじめに
2022年夏のシリーズ"平和"
第四回は、未知の未来やわからない"他者"に対する「恐怖」と
人間のうちから湧き上がってくる「怒り」について。
自分自身の心を見つめる時間を
一緒にもってみませんか。
音声はこちらから
https://www.fujibapchurch.com/app/download/12455051457/2022.8.28.mp3?t=1662346227
聖書本文 ダニエル書2章26節~45節
お話
私たちが暮らす日本という国では、8月15日が敗戦記念日と言われます。終戦記念日という言い方もしますが、戦争は決して終わったわけではない。日本という国においては、未だ戦争が続いている。沖縄の地には、未だ世界の戦争に加わり続けるアメリカ軍の基地があり、沖縄に住む人々は、日々その危険から逃れられない生活を押し付けられ続けている。また、77年前、日本という国は、戦争を決して自ら終わらせたわけではない。止まることのない戦い、多くの人々の命や人生を奪い続ける戦争を、決してやめようとしなかったこの国は、その戦いに負けるということによって、ようやく止まることになった。だから、終戦したのではなく、敗戦したのだということを覚える。それが敗戦記念日です。戦争という暴力は、そこに生きる一人ひとりの大切な命や人生、その一人ひとりの命の価値や尊厳、また生き方の選択をすべて踏みにじり、奪っていくものです。
先週から、ダニエル書という書物を読んでいます。ダニエル書はその昔、イスラエル・ユダヤ地方に住む人々が、東側にあったバビロンという大きな国の攻撃を受け、自分たちが生活をしていた国や生活を奪われていった、そのような時代のイスラエル・ユダヤの人々の様子について書かれた書物です。主人公は、この書物のタイトルにもなっているダニエルという男性。彼は聖書の神さまを熱心に信じるユダヤ人でした。先週お読みした1章では、イスラエルの都、神さまを礼拝する神殿のあるエルサレムが、バビロンに攻められ包囲されたこと、そして多くのものが奪われていった様子が書かれていました。バビロンのこの攻撃は、その後数十年間、複数回にわたって行われた攻撃の最初でした。ダニエルは、この1回目のバビロンの攻撃により捕らえられ、バビロンの国に連れていかれた捕虜でした。容姿が美しく、頭もよい、若い男性……そのようなことを理由に、ダニエルをはじめ、何人ものユダヤ人の幼い少年たちがバビロンに連れていかれました。彼らは名前をバビロン人の名前に変えさせられ、バビロンの言葉や学問を教え込まれました。絶対的な暴力、いつ殺されてもおかしくない危険のなかで、それに従わないという選択肢は彼らにはありませんでした。しかしそんななかでも少年たちは、イスラエルにいたときに自分たちが大切にしていた信仰、聖書の神さまを信じる信仰は捨てなかった。彼らはバビロンでの絶対的な抑圧のなかにあっても、バビロンの神々にささげられた肉を決して食べないという行動を通して、自分たちの信仰を大切にし続けた。これだけは譲れない。名前を変えられても、どれだけバビロンの学問や文化について学んでも、その力、暴力に屈しない。彼らのその思いは、おそらく遠いイスラエル・ユダヤ・エルサレムの地にいた彼らの同胞、彼らの家族や友人たちとも繋がっていたのでしょう。バビロンの地にあって必死に抵抗し生きる彼らと、イスラエルの地で、繰り返されるバビロンの攻撃に、必死に抵抗し続けるユダヤの人々……彼らは物理的には離れていても、同じ神を信じ、その神に希望を置こうとするその信仰によって、繋がっていたのでしょう。
ダニエルたちはバビロンの地で、何度も命の危険に遭うことになります。今日の場面もそのひとつでした。どんなことがあったのか、今日お読みいただいたのは2章の後半部分だったのですが、2章の最初の部分を少しお読みしたいと思います。2章の1節から6節。
バビロンの王ネブカドネツァルは夢を見た。その夢は王を不安にさせる夢だった。王はその夢の意味がわからず、心が落ち着かなかった。一刻も早くその夢の意味が知りたい。そこでバビロンにいる賢者たちに、その夢を言い当て、解釈するように命令した。どんな夢を見たのかすら教えてくれない。それも言い当ててみろ、と。その命令は絶対……もしそれができないならば、できないというその人も、その家族も皆殺しにすると。バビロンの王ネブカドネツァルは、そんなめちゃくちゃな命令を出した。このままではバビロン中の賢者と呼ばれる人々とその家族がみな殺されてしまう……。ダニエルたちにその危険が迫ってくるのも時間の問題でした。そんななか、ダニエルはどうしたか……彼は彼が信じる神に祈りました。そして、神は彼のその祈りに応え、王さまの夢とその意味を彼に示してくださったというんです。どうしようもない困難、避けようのない危険のなかでの、そんな奇跡のような物語のなかに、私たちは何を見ることができるでしょうか。
神さまから夢の内容と意味について示されたダニエルは、今日の場面で王さまのところに進み出ます。27節で「わたしの見た夢を言い当て、それを解釈してくれると言うのか」と言う王さまは、自分で命令をしたくせに、どこか「そんなことができるはずがない」とでも言うような口調です。そこでダニエルが王さまに語った夢の内容は、どのようなものだったでしょうか。
簡単にいえば、ネブカドネツァル王が治めているいまのバビロンという国が、将来ほかの国によって滅ぼされるという内容でした。その夢の意味は、王さまが不安を感じていた通り、よい意味ではなかったんですね。自分が納めている国が、ほかの国によって滅ぼされる……そんな将来について語られて、王さまはどのように感じたでしょうか。夢の意味を明らかにすることができないならば皆殺しだ!と、怒りに任せためちゃくちゃな命令を出していた王さまです。自分の国が滅びるなどという将来を告げられたら、「そんなことがあるはずがない!そんなことを言うお前は死刑だ!」と、それこそ激怒するように思います。しかし、そうはならなかった。今日の場面の続きですが、王さまはダニエルの話を聞くと、彼に激怒するどころか彼にひれ伏し、彼が信じる神さまについて「神々の神、すべての王の主」であると告白しました。こんなことが起こると、誰が予想していたでしょうか。王さまは、国の滅亡を告げたダニエルの言葉に満足した……夢を見て感じていた不安は、どうやら解消されたようなんですね。
夢を見て、不安を覚えていた王さま、この王さまが不安に感じていたことは、いったいなんだったのでしょうか。また、王さまが国中の賢者たちに対して求めていたことは、いったいなんだったのでしょうか。夢を言い当て、解釈すること、そのことを通して、王さまはいったいどうしてほしかったのでしょうか。今日の場面における王さまとダニエルの会話をよく読むと、夢について語りはじめる前に、ダニエルは王さまに対して次のように言っていました。28節から、もう一度お読みします。
特に注目したいのは、今お読みした一番最後の部分、31節の後半の部分です。「その秘密がわたしに明かされたのは、命あるものすべてにまさる知恵がわたしにあるからではなく、ただ王様にその解釈を申し上げ、王様が心にある思いをよく理解なさるようお助けするためだったのです」……「王様が心にある思いをよく理解なさるようお助けするため」別の日本語の訳の聖書では「王様がご自分の心にある思いをお知りになるため」「あなたの心の思いをあなたがお知りになるため」……そんな風に書いてありました。現代となっては、夢というものは、その人自身の記憶や心の状態と深く結びついているということが知られています。しかしこの当時は、夢は自分以外の、未来や、なにか大いなる存在からの予告、予見、メッセージ、そのように捉えられていました。しかし今日の場面でダニエルは、王さまの夢とその意味について、そこに「王さまの心の思いがある」という風に語ったんですね。その夢に表されているのは、まさしくあなたが感じておられる不安そのものだ。そしてその不安は間違っていない。その不安をごまかさなくていい、と。イスラエルを攻め滅ぼそうとしていたバビロンという国は、確かに強い国だった。しかし、ネブカドネザル王はどこかで、その国の行く末に不安を感じていたのかもしれません。将来がわからないことについて。わかりたい。いや、もしかすると、わからなければならない、わかっていなければならない、一国の王として、この国を未来永劫安寧な国として保ち続けなければならない、そんな王という立場の責任・重圧を前に、押し潰されそうになっていたのかもしれません。わからないことがあってはならない、国が滅びるようなことがあってはならない、自分はこの国をきちんと納めることができているだろうか、そんな恐怖や不安が、彼をより暴力的に、支配的にしていたのではないか。そんな彼にダニエルが告げたのは、バビロンが滅びるという将来でした。しかし、その詳細はわからない。いつどのように、それが起こるのかわからない。結局のところ、将来のことはわからない。神から示された将来のできごとの一部……それについてダニエルは「自分の知恵によるのではない」と言った。将来のできごと、その一部をさえ、知らせてくださるかどうかは神次第。たとえ一国の王であっても、将来のこと・未来のことは人間にはわからない。ただ、いまここにあるのは、そんなわからない将来・未来に対して、不安を感じている私の心。その「あなたの心の思いを、あなたがお知りになるため」そのために、私は夢を解き明かすのだと、ダニエルは王さまに語ったんです。夢に表されているのは、あなたが感じている不安そのもの。そしてその不安は間違っていない。その不安をごまかさなくていい。あなたの心が感じている通り、あなたの将来・あなたの未来は、あなたにはわからないし、あなたの思い通りにできるものではないのだから。
「わからない」そのことが不安だったはずが、「わからない。わかり得ない」そのことがわかって、ネブカドネツァル王は安心したんですね。自分には「わかり得ない」ことがあるということ。わかり得ない将来、わかり得ない神という存在があるということ。わからなくてもそれでもいいということ。そのような生き方があるのだということ。神を信じるダニエルが、まさにそのような生き方をしているということを知ったのだと思います。
私たちも、自分にはどうにもできない過去や将来、未来に不安を感じることがあるでしょう。自分以外の他者の反応や、他者から自分に向けられる言葉に、不安を感じることもあるでしょう。どうして不安を感じるのか。過去、将来、未来、神……それら、自分にはわかり得ないすべてのもの、自分以外の他者と言われるものが、私の思い通りにはできないものだからです。それらをどうにかしなければ……わかっていなければ……私がなんとかしなければ……そのように思うとき、それができないことに私たちは不安を覚え、時に怒りをもってそれらを傷つけてしまいたくなることさえあるのだと思います。しかしそんな私たちに、聖書は、ダニエルは語りかけます。「そこにある、あなたの心の思いを、あなたは知るように」。いま皆さんには、自分以外のなにか、過去、将来、未来、他者に対して、不安に感じていることがあるでしょうか。そこにある、自分自身の心の思いに、静かに耳を傾けてみませんか。
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