やさしさなんて本当はどこにもなくて、それでもなお優しさの溢れる世界に気づく
世の中にやさしさなんて存在するんだろうか…
という、殺伐とした中で毎日を過ごしてきた謂わば、黒歴史的な時代があり、優しさなんて幻なんだと心から信じている。
反吐を吐きながらも恐る恐ると、七転八倒で生きることを選んで以来、ますます相も変わらず、なんだ、優しさなんて幻だ。と、死ぬほど思い知った。
だけど、ふと気づく。
なんてこった! そいつが同時に…街中に溢れかえっているじゃないか。
それでも言おう、やさしさなんて幻だ。
なんでって、たぶんやさしくしようと思ってした誰かの行動は、そこに嫌らしい下心がある。
その後にやってくるのは「やさしくしてあげたのに!」とかいう、自分勝手な相手のエゴの押しつけだったりするからだ。
そして言おう、優しさなんて街中に溢れかえっていると。
秋の優しい青空。
朝からそっと寄り添ってくる暖かな犬のぬくもりの優しいこと。
早朝澄み切ったピンと張り詰めた空気が優しく身体を柔らかくしてくれる。
やさしさなんて幻。
それでもそこら中にある。
それは、誰かのためにとか、何かのためにとか、やさしくしてやろうとか、そんな思惑を乗り越えて提供される、当たり前のようにそこに存在するもの。
そしてその存在に気づき、受け入れ、取り入れていく自分自身のチカラ。
優しさなんて街中に溢れかえっている。
それは、知らないうちにかけている…自分が、自分自身へかけている優しさに気づいたときから始まるエネルギー。
倒れた自転車を起こすこと。
傘がぶつからないように傾けること。
トレーにお手拭きを置くこと。
ドアをちょっと長めに支えておくこと。
ベビーカーエリアに立たないこと。
私は、どれだけ気づいて、どれだけ感じて生きていけるのだろう。当たり前のことなんてなく、そのすべてが優しさだと。
自分自身の気づきのチカラをあげること。
エネルギーを入れる器である自分自身の身体を大切にしていくこと。
すべてがヨガに繋がっていく。
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