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狂気も青空も自己責任

昔、「悩みが二つあるから、ヒプノセラピーをやって欲しい。」と言われたことがあった。

”時間に制限があるから、どちらか一つに絞って欲しい”と告げたところ、その女性は、二つの”誰にも言えない癖”の話をした。
一つは、買い物をする時、色違い、もしくは全く同じものを必ず二つ買ってしまうこと。不経済で仕方ないのでこの癖を治したいとのことだった。

もう一つは、冷蔵庫の野菜室に新聞紙に包んだキャベツや大根をしまっていることだと言う。

え?二つ目のそれは、別に良いのでは?と最初は思った。丁寧に保存する人ってそういうことするよね?と。

ところがよくよく聞いてみると、「ううん。違うの。毎日その新聞紙を広げて、腐って行く野菜を見て、また包んでしまうの。」

少しぎょっとした。
それは、「誰かに見つけて欲しいような。止めて欲しいような。でも、こっそりと続けたいような気持ち。」なのだと。

本当は、ヒプノセラピーなんて大風呂敷を広げなくても分かる。一見、後者の方が重篤そうなのだけど、大元は同じ感情なのだと。
洋服、小物など、気に入ったものを一つ失った時に絶望するのが怖くて、孤独を避けるためにスペアを用意しておきたい。だから同じものを二つ買う。
これも充分恐ろしい。洋服だとか小物とか家とか、その先に存在するのは人間かも知れない。

二つ目の新聞紙に包んでいたものが最初は野菜かも知れないが、やがては虫や小動物や人になるかも知れない。

その人は、気に入った人を逃がさないように新聞紙に包んで閉じ込めておくことを、愛と同じ意味のことだと誤解したままの人だった。
そして同時に、強い妄想癖を持っているので、気に入る人というのが必ずしも身近な人とは限らない。

さほど親しくない人をも包み込んで閉じ込めるためには、もっと大きな新聞紙、あるいは強固な檻が必要になって来る。彼女にとっての学びとか成長というのは、永遠に閉じ込める知識を得ようとすることだった。本人も疲れるだろう。しかし、他人のことはじっとり見るけれど、自分を洞察したり見つめたりすることは皆無なので、気が付いていない。全くの無意識。とても危険な状態だった。

学生さんだったので困った!と思った。全く目的が違う。セラピストやカウンセラーには向いていない。人を息苦しくしてどうする。
が、大丈夫なんだな。これが。目的が違うと方法も間違えるので、そこへは辿り着けない。

もしかしたら、何らかの形で他人に投影されやすい人なら体験したことがあるかも知れない。
新聞紙かも知れないし、鉄で出来た大きなクッキー型かも知れない。(ちなみに、その用意された型からはみでるその人らしさは、ギロチンのようにカットされる)自分なりに得たツールをこちらに仕向けて仕留めにかかって来る種の人との遭遇。

誰でも逃げる。痛いとか苦しいのは誰でも嫌だから。もし、応じるとしたら、同じくらい大きな穴が空いた人でしかない。

捕えたい、思い通りにしたい、でも、逃げられる。もっと大きな仕掛けを入手してまた追いかける。でも、逃げられる。
そうすると、必ず「ぎゃああああ!何で分かってくれないの!?Y子はこんなに愛しているのにい!」と発狂する。←自分のことを自分の名前で呼ぶ人が多かった。

もはや異常性に敏感になっているので、気を付けながらも普通に接していると、これもやはり「こっちだよ、こっちを見て!何でその人と話してるの?」と大騒ぎになり、”その人”を攻撃してみたり、私を攻撃してみたり、それでも反応しないと大勢の人々、一人頭2時間くらいの時間を奪っては涙と罵詈雑言らしい。

何で反応してあげないの?冷たいじゃんって言われるかも知れない。でも、反応すればするほど悪化するのもこのタイプなのだ。

これはもう必死に逃げて、本人が納得する妄想が後付けされ、人に何と思われようと逃げるしかないのだ。それでもダメなら「ごめん。どうしても興味が持てない。」と詫びる。
そらにダメなら「どけ。邪魔。」の世界となる。

冷たいのかも知れない。いや、冷たいのだろう。でも、人の時間とエネルギーというのは限られている。誰でも精一杯生きているのだ。それを想像するのが愛とまでは言わないけれど、愛の切れっぱしくらいはかすめるかも知れない。

人は、化け物化するほど自分を孤独にしてはならない。
自分を愛するというのは、そういうことでもある。

だから今回もバリン!と突き破り、青空を見上げる。

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