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見覚えのある神々(ゴールデンカムイから)

ずっと以前にインドネシアの子から”ゴールデンカムイ”を薦められた。アニメの方だ。インドネシアの子たちにも日本のアニメが大好きだという子たちが沢山存在する。

当時は”鬼滅の刃”がブームになり始めた頃で、「アニメで日本語を覚えました!」と言う子たちに混ざって、私は”呪術廻戦”の方が面白いな~などと話していたのだが、一際日本語が堪能な子が薦めて来たのが、”ゴールデンカムイ”だった。明治末期の北海道や樺太を舞台に繰り広げられるこのアニメもまた沢山のファンが存在する。

気軽に見始めたのだが、おそらくは彼らとは違うツボではまった。他の命を食べながら生きながらえることについて考えた思春期のように。そしてボロボロ泣いた。命は皆平等なはずなのに、何故だか動物相手だと辛い。皆、可愛いもの。しかし、アシリバさんは、何でも食べる。そして、正しい。生きることに迷いがない。

そして最近になってウエブ漫画の方でもゴールデンカムイを見つけたので最初から読みだしたのだが、この作品も例外なく動画版より詳細に描かれている。

不死身の杉本は、日露戦争でも生き残り、その後も何度死にかけても蘇る。ということは、沢山の人を殺して来たということだ。

しかし、一頭の鹿に怪我を負わせ、いざしとめる段階になって躊躇する。一晩中追い回した鹿は、手負いで弱り切っていた。冬山で一晩中出血して、鼻からツララが下がるほど体温を失っている。苦しんで苦しんで、それでも最後の最後まであきらめず、自分に突進して来る鹿を目の当たりにして、杉本は固まってしまったのだ。

代りにトドメを刺したアシリバさんに「責任を持てないなら最初から撃つな!」と叱責されるのだが、彼は、最後の最後まで生き残ろうと突進し、戦おうとする瀕死の鹿に、自分自身を姿を見て固まったのだった。「あれは、俺だった。」と。

また、老人と化した土方歳三が、ボケ老人扱いされてなめられたあと、相手を瞬殺して言う。「この時代で年寄を観たら、”生き残り”だと思え。」と。

通常の私は、作り話だと分かり切っているものにあまり興味がなくて、そのせいであまりアニメを観ない。じゃあ、何故こんなにはまったのだろうか?という理由が、分かって来た気がする。

リアルなのだ。

これは、皆どこかで見たことがある光景だったのだ。

明治末期の北海道や樺太を観たわけでもないし、アイヌや日露戦争の軍人さんを現実に観たわけではない。

じゃあ、このアニメの登場人物たちは誰に似ているんだ?

答えは、私が出会った全ての人々だ。

だからリアルなんだ。

今は戦争中ではない。でも、皆それぞれの闘いをしている。電車に揺られて通う人、働く人、主婦をしている人、病気と闘っている人、学校に通ったり何かを学んでいる人、アルバイトしている人、自営している人、何らかの理由で引きこもっている人、老人ホームで「食べろ、食べろ、飲め、飲め」と言われ、嚥下状態が悪くなる中、懸命に食事している人たち。

意識しているにせよ、していないにせよ、今日この日、今この時、この世に存在している人々は、皆、生き残りだからだ。

生きることはそれだけで大変で面倒臭いことだ。でも、細胞の一つ一つ、その細胞を形成している水の分子に至るまで、生きよう生きようとしているに違いない。だから、今がある。

noteでも、ゴールデンカムイを見かける。

笑って生きようと思いつつも体調不良や恐怖に苦しみ、それでも笑って生きている人は、おそらくは優しいいでたちの女性。ペン、あるいはPCのキーを静かに叩いている人かも知れない。

またある人は、心理や人間というものについて静かに淡々と話しつつ、押しつけがましくない優しさを振りまいている。これはなかなか出来ることではない。照れても隠しても、ふざけても、その重くならない愛が文章からはみ出ている。

その姿も文章も、決して、不死身の杉本やその他登場する軍人には見えないだろう。ヒグマにも狼にも見えないだろう。

でも、肉眼ではない方の目が、心が、その静かな壮絶さを日々感じ取っている。強いぞ、獰猛だぞ(良い意味で)。壮絶なパワーだぞ。皆、一人で立っている。

生きているということは、それだけで強い。それだけで勝利だ。決して普通のことではない。

こういうことを思い出した時だけ少しだけ思う。

私は人間が好きなのかも知れないと。

少なくとも、その人間に生かされているのがこの命でもあるのだと。

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