レベレーション(やっと称えた物語)

古くから語り継がれ、良しとされている話にジャンヌダルクというのがある。多くの映画や小説、ある時は漫画で語られているが、長年この話が大嫌いだった。

子供の頃に「なんじゃ、それ?!」と思った。

こんなに苦労したのに報われず、救われず、最後は火炙りにされて終了って、何、それ。

と言いつつ、また目にしてしまう。

あの救いようがない話に、いったいどんな意味があるのか?と、子供の頃からひっかかっていたのかも知れない。

はたまた、語り手(作者)が変われば、少しでも意味が分かるのだろうか?という思いもあった。

『ジャンヌ・ダルク』1999年 フランス

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この時は、ミラ・ジョボビッチのビジュアルに惹かれて観て、いつものように後悔した。特に火刑のシーンがいつにも増して生々しくて、「今度こそ、絶対に観るもんか。」と思った。報われなさすぎる。

そして、昨今、またこんな漫画を読んでしまった。

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山岸涼子先生である。これは仕方ない。やはり読んでしまうだろう。

ジャンヌダルクものとしては珍しく、火刑が執行される寸前のシーンから物語がスタートしていた。

そして、途中途中で「これは・・・?」と思う切り口があった。非常にリアル。いつも語られている”奇跡だと思ったものが、全部彼女の妄想や勘違いだった。”という説である。それだけならいつもと変わらない。

しかし、妄想だったとしたら、どうしてそんな妄想を観る必要があったのか?というところがもう少し詳しく語られている。当時の女性の立場や、耐え難い現実。そこから逃げるために彼女は、壮大な妄想を観たのだと紐解かれている。

これは面白い。さすが山岸先生だと思った。とは言え、どうせ火刑になるのだ。妄想の理由が分析されていたところで変わりない。読み進めながら、そう思っていた。

ところが、ラスト近くで一変した。

主人公が驚くのと同時に読んでいる自分も「ハッ!」とさせられたのだ。

そうか!と一緒に思った。

解放とは、肉体からの解放。人生からの解放を意味していたのだと。

神は約束を違うことをしなかった。それを彼女は信じ続けた。

しかし、その解放に到達するためには、与えられた使命を全うする他は無かったのだ。そして、彼女は、見事にそこへ辿り着いた。全ての試練を乗り越えた。

偏見も誤解も、蔑みも、あらゆる凌辱も、彼女を汚すことは出来なかった。

彼女は、あがったのだ。

ジャンヌダルクの物語で、しかも、一冊の漫画で、溜飲が下がるなんて。

まさかの出来事だった。

余談だけど、この漫画では、彼女が火刑に処された後のことも、ほんの少し描写されている。彼女を迎え入れてくれたその存在との対話も含めて。

凄い作品だと思う。

***

10代から看護学生で病院で働いていて、「何でこんな仕事を選んだのだろう?」と何度も後悔した。人の死を観るのが辛くて。そして、今でも辛い。

でも、時々ではあるが、今ではその意味がほんの少しだけわかるようになって来た。自分も人間なので、まだまだ辛いことには変わりないが。

ところで先日、とあるお婆ちゃんに酷いことを言ってしまって落ち込んでいた私。あれからもまだ考え続けている。

そんな私の目の前で、22歳の新卒の女の子が、またあのお婆ちゃんと喧嘩をしていた。

「あーあ、死にたい!死んでしまいたい!いつ死んでもいいんだよおお!」と喚くお婆ちゃん。

私だったら、真剣に受け止めて、またきついこと言っちゃってたかも。そして、また落ち込んでいたかも。

しかし、若さとは凄い。22歳新卒ちゃんは天井を指さしつつ、婆ちゃんに大声で言った。

「まだまだ修行が足りないから来るなってさ!」

一瞬、しん・・・となって大爆笑した。

婆ちゃん、私もあなたも新卒ちゃんも、まだまだ修行が足りない。この身体に閉じ込められたまま、もう少し真面目に頑張ろう。

いつか正々堂々と解放される その時まで。

ジャンヌが異端の罪で処刑された24年後の1455年11月。ジャンヌ・ダルクの復権裁判が開かれた。
1456年7月7日 法廷は、115人の証人による”彼女への感謝や恩”の証言を元に無罪とした。
無念を晴らすかのようにフランス各地で喜びと共に祭典が開かれた。現在は、オルレアンの乙女として、ジャンヌ・ダルク像や、ジャンヌ・ダルク教会が建てられ、ジャンヌの故郷や、処刑された広場など、聖地巡礼などで訪れる人などがいる。

もしかしたら彼女は”無念”などでは無かったかも知れない。今も。

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