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例えば…

例えば自分が生活支援員だとする

6名定員の満床グループホームのね

知的障がい 自閉症の利用者さんが自分の担当だったとする。

世話人さん(お世話する人)に暴言あり

前回担当職員は注意、訓告とし、「次したら利用停止。自宅から通勤を。」と伝えていたとする。

そんな方がまたも暴言。粗暴行為までも。

世話人さんブチギレ。早く追い出してください!約束してたでしょ!忘れたの?早く!

あなたならどう対応する?

例えば、その利用者さん。そもそもはグループホームを利用したくない。自宅から通いたい。けど、ご家族は高齢化。面倒見きれない。今まで仕事も続けてこれたことはない。初めて仕事を今続けて出来てる。仕事は続けたい。自宅は県外。

あなたならどうする?

支援者であるからこその目線で考えて欲しい。

ルールはルール。利用停止。自宅に帰ってもらう?それは罰として?罰則を与えるのは果たして支援者としてすべきなんだろうか。そもそも自宅から通いたい。グループホームが嫌な方。あと一回で自宅から通勤。あなたならすぐさまルールを破らない?だって自宅に帰れるんだもの。ちゃんとした理由を携えて、「自宅に戻りなさい」と指示を受けて帰っていいという正規の理由が出来るんだもの。そもそもそれって誰が定めた何のためのルール?それはその方の支援をする上で、根本的な解決になる?将来につながる?支援できてるって言える?

家族も面倒見れない。世話人さんも面倒見れない。支援者もお手上げ。だから見放す。それっていいの?

迷惑かけたらダメじゃないの!何が欲しいの!買ってあげるから、ごめんなさい言ってきなさい!何これ?

その利用者さん区分も軽く、生活能力も高い。時間の感覚はしっかりしてて、仕事に遅刻なんてしない。むしろルーティンを崩せない。買い物も自身で出来る。お金にはシビアで、なるべくお金使いたくない。テレビも見ない。押し入れにしまってる。新聞があればいい。1人が寂しいとは思わない。むしろ1人の時間も好き。これだけの条件揃ってて、何故グループホームにこだわる必要がある?色々言われたり、勝手に決められたルールを強いられたり、協調性や集団の優劣強弱をしいらる必要が何故ある?あなたは出来るヒトなんだよ。生きていくには他にも手段はあるんだよ。これからも怒られたり、他人との違いを指摘されたりする世界じゃなくても、1人で生きていく手段はあなたには出来るんだよ。ってことが何故誰も言えない?

『支援』他人を支える。手を添える。助ける。その方の可能性や能力を信じて、最後まで味方する。応援する。どうしてそんなそもそものことが出来ずに支援者と呼ばれているんだろう。時に先生なんて呼ばれてヘラヘラしてる。それが平気に思える感覚はどこから来るんだろう。お金を貰って支援をする。それが本気で出来ない奴は福祉を語る資格は無いし、そもそも他人の人生に干渉する生き方にアドバイスしたり示唆するに値しない。ヒトがヒトとして対面した際に常に対等であるべきで、そこには優劣も上下もない。あるのは関わるのか関わらないのかとそこに責任が果たせるか果たせないのかということ。ただそれだけ。夫婦でも、親子でも、家族でも、友達でも、他人でも。誰でも。変わらない。

『障がい』自分には関係ないとは言い切れないし、いつ何時どんな場面で自身が家族が『障がい』を手にすることがあるやもしれない。他者によってかもしれないし、環境によってかもしれない。自然とかもしれないし、自発的にかもしれない。そうなった場合に、福祉を利用する。今現時点でも福祉は誰もが関わっているにもかかわらず、無関心や無知でいることが大丈夫なのだろうか。

自分と違う。自分の考えてる当たり前と違う。自分を含む集団の中での常識からは外れてる。価値観が合わない。だから遠ざける。忌み嫌う。排除する。自身がその立場であった場合にどう感じるのだろうか。マイノリティーだから。マジョリティーだから。関係ない。常に必要なのは、相手に対する『配慮』。そして、関わろうとする覚悟。

そんな方々と語り合いたい今日この頃...

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だいすけ
サポートがなんなのかすら理解できていませんが、少しでも誰かのためになる記事を綴り続けられるよう、今後ともコツコツと頑張ります!