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自分が住処に選んだ場所が、一種の自己表現になっていく時代【本:日本人はどう住まうべきか?】

養老孟司(解剖学者、1937年、鎌倉生まれ)著書『バカの壁』など
隈研吾(建築家、1954年、横浜生まれ)著書『負ける建築』など

『日本人はどう住まうべきか?』

この本を、あるお茶屋さんのカウンター席で読んでいたら、そのお店のお母さんが「何の本を読んでいらっしゃるんですか?」話しかけてきてくれて、そこから「日本の建築の未来」や「人々の動向」「娘さんの大学受験」「どういう街が住みやすいか」などと言う話になった。私は移動中、本をひたすら読む。そんなことは、ベトナムのバイク運転中ではできないから、きっと活字に飢えていたんだろう。

この本を見つけた場所も、すごく小さな鎌倉の本屋さんだった。小さいのに、なぜか行ったら買いたくなる本が見つかる、そんな面白い本屋さん。「なんでも揃う」チェーン店だと、大きすぎて、歩くだけで疲れるのだ。自分が住む街も、この本屋さんのようにコンパクトで良いのにな、そんなことを思いながら。

まえがき(養老孟司)

・カトリック的な世界は、なんだか知らないが、世間とぶつかるのだと思う
・コンクリートや四角四面の建物も気に食わない。ガウディほど曲げろと言うつもりはないが、もうちょっと、何かあってもいいではないか
・根津美術館
・ともかく現代は「言う人」が増えて、「それだけ言うなら、やってみな」と言われた子供のころが懐かしい

そうだった。東京に行ったら行きたいと思っていた根津美術館。また、空港へ向かうときに前泊して向かおう。

・「だましだまし」の知恵
・津波はノーマークだった建築業界
・川は水位が1メートル上がるだけで、景色が全く変わって違う場所のようになる
・日本建築学会では、耐震設計についえは盛んに研究されていて世界トップレベルなんですが、津波については、部会もなかった
・津波は予測不可能だから、「ない」ことにしていた?前提条件がある上で論理を使うのが理科系なので、理科系の人間は前提をいじることを嫌う
・江戸時代のころは、ものを考える時間軸がもっと長かった
・「家制度」家というのは個人を越えて存続する
・長い時間軸に耐えうるソフト
・かつて日本の大工さんは、クライアントの家に絶えず出入りしていて、生活のクセを知り尽くしていたので、そこに住んでいる人のニーズをくみ上げて、プランニングもアフターケアできたけれど、今はそうではない。仕事の内容が工場の労働者に近くなってきちゃっている。今のシステムじゃ、必然的に責任感が弱くなる。
・超高層ビルは揺れるけれど、それでも壊れないようになっている。自身にとりあえず耐える建物を建てるだけなら、日本人は一番得意
・デベロッパーも住宅専門家も、ある種の共存共栄関係にある
・活断層との距離や、土地の性質によって、地震派の伝わり方もいろいろ変わってくるが、今の法律システムは、全国一律の建築基準法。明治以来150年、一律方式は変わっていない。
・被災地の再建法も一律というのは、おかしい

震災以降、海辺の街に「津波注意」看板が増えた。鎌倉なんて、それの典型例で、10m沖に看板を見たんじゃないかってほど、多かった。鎌倉の海辺は、車がビュンビュン走っているので、あまり走りたいと思う場所ではなかった。こういう内容を読んだら、一律の建築基準法など、個人で変えられない環境が多すぎて、賃貸も物件購入も、なんでも、「これは、自分が環境を変える(移動する)しかないな」と諦める。そして、私は、海の近くには住みたくはない。養老氏も言っていたけれど、どうも波の音(特に夜の)は馴染まないし、踏切の音も怖い。

・戦後の日本は、既得権益エリアを作って産業を振興させ、資本主義国家のインフラを整えてきた。そのまま残っていた半世紀前の古いシステムが内部崩壊してしまったのが原発事故。
・日本のデベロッパーは、超高層にからむような大きなプロジェクトをでっちあげて、話題づくりをしない限り商売ができないという構造になっている
・新しい超高層ビルに入っていないと一流企業に見えないという日本的な発想
・日本の建設工事業界では、あらゆる品質向上の努力をして、何でもきちんと作り続けてきた。その結果、建築価格が世界一高くなってしまった。それが、ビルの家賃やマンションの値段にも反映する。
・政治家にとっても、建設業界はいまだに大きな支持基盤。業界全体が必死に回転し続けないとダメなので、悲惨
・中国でも、今の経済成長を維持するためには、デベロッパーに頼らざるを得ない。不動産価格を上昇させて儲けることが、短期的には一番高収益になってGDPを押し上げる。フィクショナルな成長だけれど、仕方がない。
・日本全国、どこでも建設業と政治家がグルになって、建設が永遠に続いていくようにしなきゃならないので、被災地復興でもそのような構図になる

・例えば、新しいビルを作って古いビルのテナントをそっちに入れ替えることで、あれこれお金を動かす。移りたくないテナントでも、いろいろな付き合いにからめとられて、相手の言うことを聞かなければならないケースが多い。

以上読んで、今の東京での再開発計画がどれほどあるのか調べてみた。

「どんだけー!」
というのが、最初の感想。そして、どこもホテル、オフィス、住宅、店舗と似たような場所。この辺りは今ですら、生活感が全くない場所なのに、ここに形だけの「交流スペース」を作ったところで、何も生まれないと思う。見上げる街は、とても窮屈だ。東京だけじゃなく、香港、シンガポール、ショッピングモール化したバンコクの一部地域や、ソウルは、正直、散歩が面白くない。

・行政とコンサルと政治家は「アミーゴ」

・原理主義に行かない勇気
※原理主義:基本的な原理原則を厳格に守ろうとする立場。対比語は世俗主義、相対主義、修正主義、多元主義など。

・建築は基本的に客観性、科学性重視で、経済の要素は二の次
・建築の基本はやっぱり人間同士の信頼関係
・コンクリートがあれだけ世界に一気に普及したのは、技術としてものすごく単純だったから
・コンクリート建築の信用性は、社会や国などの信用性につながっている
・逆説的だけれど、中身が見えなくてわからないからこそ、強度を連想させる何かがある。生活の危うさとか、近代の核家族の頼りなさのようなものを支えてあまりある強さを感じるのかもしれない。

・日本の都市建築で、木をもっと使わない理由は、関東大震災と太平洋戦争のトラウマ。その後、国が不燃化こそが都市計画の中心だというようになって、木造が作りにくいような法律になった

養老氏「その不燃化が行き過ぎて、基盤の目型の都市計画や郊外住宅、超高層マンションなど、僕がすごく苦手とする風景が日本にできちゃった」

・コンビニ型建築
・コルビュジェがなぜ有名になったかというと、ピロティ(建物を支える細い柱)でもって、建築と地面を離した為。その方が世界のどこでも通用したから。大地から建築を切り離せば、どんな環境の中だって、一応、同じように均質な建築空間は作れる。インドでも、アメリカでも。

・アジアの都市は自然発生的
・結局、僕らの仕事で面白い建物を建てられるのは、いわゆる都市計画からはこぼれ落ちた、そういう既得権でした建てられないような、変な場所。
・結局、一般解なんか求めずに、例外を探していけばいい
・コルビュジエ:都市化の名の下で建物と土地を切り離して儲けましょうという20世紀の建築のテーマの先陣
・人間に染みついた空間感覚とか、精神性、人との距離感というのが、民族によって違うということは絶対にあるはず
・エドワード・ホール『かくれた次元』
文化によって空間の感覚がどのぐらい違うかについて、、まともに議論したものの一つ
・アングロサクソン系は、地面との近さが重要だという農民の感覚、ラテン系とずいぶん住み方が違う
・養老氏:僕はいわゆる郊外のニュータウンというのは、見るだけで嫌いなの。ニュータウンって、歩いていても、自分がどこにいるか分からなくなる。昔の鎌倉は人力で開発してきた土地だから、道は地形に合わせて這っていて、家もそれに合わせて建てている。自然の地形のままになっているから、どう歩いても退屈しないんですよ。

・四角い方眼みたいな街を作っちゃうのは、人間のためには絶対にならない。

この話を聞いていて思い出した、ベトナムのタイニン省にある四角い方眼の街。ここは、本当に真っ直ぐの道が広がっていて、とにかくバイクで走っていて面白くなかった!(笑)それぞれの道には名前があって、その小さな看板便りに道を曲がるも、それぞれが細いからトラックとか停まっているともうほぼ通行止め状態だし。

Thành phố Tây Ninh(タイニン省)の街の中心

面白くなさ過ぎて、どの道通っても一緒だから、写真すら撮っていなかった・・・。一軒、どこにでもありそうなカフェに寄り、カオダイ教の総本山に寄って、次の目的地へ。

・鎌倉も、今ではずいぶん開発の手が入る。国道134号線も。鎌倉の海岸の松林がきれいに消えてしまった。
・不動産屋的な、最大床面積を確保しよう、と言う考えだったら、とりあえずまっすぐの道路と碁盤の目になる。
・どうしたら、相続税に対抗したまちづくりができるか?

・センスオブユーモアの感覚が必要。人間は死ぬんだから、生きているうちは笑うしかない。

・何かあったら、システムに切り込もうとせず、対症療法しかできない
・省庁の壁を取り除くという大仕事を上からやってくれる、大きなビジョンのある政治家が日本には長いこと不在
・コントロールの主体は、日本の場合は「世間」。その世間の質が下がっちゃったから問題。昔は、川に落ちるやつってのは酔っ払いで、ただ笑われていただけだったんだけどね。世の中と僕らの常識が合わない。本当は、どういうふうに国土を動かしていったらみんなが幸せに暮らせるか、ということを考えてほしいんだけどね。

観光地の柵や看板なんかもそうで、雰囲気良い場所に、〇〇禁止、〇〇注意、というような看板が置かれているから、全体的なイメージに影響を与えていると思う。ベトナムの観光地は遺跡やアート作品であっても、柵がほとんど無いから、「自己責任」で遺跡の奥とか高いところまで行ける。(まぁ、これはどっちがどうとか言うよりも、ある違い)

・マンションに見るサラリーマン化の極北
・サラリーマンと、そうじゃない人間のメンタリティはものすごく違う

隈氏
「僕らのクライアントになる人は、日本だと90%がサラリーマンなわけです。ところが、世界に目を向けると、建築に関わる人間の中でサラリーマンはとても少ない。やっぱり、とんでもないことを考えて、都市を面白くする力を持っているのは、サラリーマンじゃない人たちですよ。サラリーマンがリスク回避だけで建築を作ろうとすると、それはただのつまらない陰湿な暴力みたいになっちゃって。だから日本は、仕事をしていてすごくフラストレーションがたまりますね。」

・現場というのはルールで動かない。大学は、ほとんどみんながサラリーマンだから。あらゆるケースを、サラリーマンはルールで縛って均一にしたがる。その方が能率がいいというわけだけど、でも矛盾する部分は全部、現場に押し付けている。別な言い方をすると、サラリーマンは「現場がない人」。現場単体で赤字を出したら、もう出世はできなくなる。だから、建築から文化がどんどん消えています。

サラリーマンという言い方はうまいなと思う。フラストレーションというのは、良い負担のストレスや挑戦とは違って、内々での交渉や対話で余計なエネルギーを使う時間だから、とにかく避けたいし、面白くない。

・「ともだおれ」を覚悟できるか。建築家も、医者も、任せるときは任せる。今の人はそれがない。

・日本の医療というのは、もうある程度格差をうけないと、どうしようもない時代にきている。たとえば、粒子線治療が高くなっちゃった理由は、大型コンピューター。中曽根康弘が政治的なバーターで医療機器はアメリカから買わなきゃならないようにしちゃった。そのおかげでバカ高くつく。日本製だったら、安いに決まっているのに。

・現場の力が圧倒的に重要。日本のものづくりが強いというのは、現場が強いということだったんですよね。現代人は感覚が鈍いですから。自分の感覚が鈍いということに気が付かないぐらい、鈍いんです。だから、身体が感受している情報を、意識の方が無視してコンピューターを信用したりする。

・今の日本人って、変わったシチュエーションに置かれないでしょう。例えば、でこぼこのある石畳とか、街では同じ硬さの平らな地面しか歩かない。世の中が異常な管理社会へとどんどん流れている。

・東京の汐留は、最新のテクノロジーを集結して、不確定要素のない超高層ビル群の街を作り上げている。汐留にあるような大きなビルを建てた場合、サラリーマン的な考え方では、すべてのテナントからきちんと家賃を取らないといけないわけです。最低家賃×平米数で、月々上がる利益をサラリーマンは必死に計算します。でも、そうやって計算を積みあげると、家賃が高くなって、なかなか普通の店は入店できなくなる。入居できたとしても、長期的に商売ができるところは少なくて、短期的に成り立てばいいようなショールームやアンテナショップがほとんど。
・アメリカでは超高層ビルの足元に花屋さんがよくある。家賃をものすごく安く抑えて、1階に入ってきてもらう。確実に花を飾ってくれて、しかも自分でメンテナンスもしてくれる。アメリカ人は、コーヒーショップも同じように考える。コーヒーショップは街に楽しい雰囲気を作ってくれるんだから、家賃を取っちゃだめだと。でも、サラリーマンはそういう発想をしない。

一時期、会社の用意した南青山にある家に住んでいたことがあって、無機質な空間と生活感のない環境に、自分がどんどん侵されていくのを感じたときがあった。笑 あと、お台場の高級マンションの1階にある、OKストアや、朝食も食べられるカフェは、上記「花屋さん」のような典型例かな。あの2店舗はとても重宝したし、地域全体の価値を高めていると思う。かろうじて、生活感を出せる場所だった・・・。

・秋葉原や下北沢といった、オフの街の人気は根強い
・現代の村こそ、車がないと生き延びていけないようになっちゃった。女房に聞くと良くわかるけど、買い物をする場所がないとか、文化がないとか、女の人はいろいろ言います。その辺の女性の生き延びる感覚というのは、すごいものがありますよ。だから村には、女の人が居着かない。農村に嫁が来ないという問題があるでしょう。それはその土地の価値を如実に表していると思います。都市計画で忘れられているのは、女の人の実感ですよ。それこそラオスとかブータンとか、基本的に女権で動いている社会を見ると、その方が自然だし、何で都市計画に男の建築家が出てくるんだよ、と思う。

・今、建築デザインの流れは、男の建築家が設計するときでも、女性的なものを大事にするようになってきている。

・僕が好きなラオスのルアンプラバンって変な土地なんですよ。メコン川とメコン川の支流が入ってきて、そこに細い鳥のくちばしみたいに飛び出した土地がルアンプラバンなんですが、通りが2、3本あって、それで終わりなの。しかも、その通りが全部露店というか、お店になっていて、座って店番をしているのは全部女性。男性は、たばこを吸っている。生物的に自然なんじゃないかな。

・モンゴルのパオ。アフリカのサバンナ。プライバシーを守るために家を作るんじゃなくて、家は公共空間。20世紀はプライバシーを考えすぎて、家というものが貧しくなった。

・分譲という手法は、高成長期に大型のニュータウンを作るときに、金融のシステムと一緒に作ったシステム。確かに、そのシステムが経済成長期には内需拡大のドライブになった。高度成長というのは、インフレ容認型の経済。消費者化する日本人に向けて純粋な金融資産だけではお金は増やせないよ、土地を持っていないとお金が目減りするよ、という幻想を与えた。企業にとってみれば思うつぼで、賃貸よりも分譲の方がすぐにお金を回収できる。

・何か起こったときに、飛び降りられない家には住まない

・エレベーターの周りに住戸が丸く張り付くスタイルだと、家の中から外の景色がパノラマ式によく見える。でも日本の長屋方式だと、外の景色は開かれることなく、一方向しか間口がなくて、廊下側は格子付きの刑務所スタイル。後は全部隣の住居の壁になってしまう。そういう方式の中で、日本ではエレベーター会社がメンテで儲けている。

人間側の「適応力を磨く」ことも大事。適応の仕方をいろいろ自分の中で検証していくうちに、適応することの「深さ」が見えてくる。同じ適応でも、これはなぜつらいか、これはどうして嫌なのかがわかる。その「嫌」という感覚にもいろいろあって、一つひとつ確かめていくと、どうしても嫌なものと少しだけ嫌なものが分かってくる。そういう作業から、人間にとって本当に快適な建築、作るべき建築が分かってくる。

・それぞれの状況に適応していく自分自身をスタディしながら、だんだん設計がうまくなっていく、という感じ。中国やインドなど、施工力のまだ低い国で設計するときは、その低さもあらかじめ設計に組み入れる。

過剰に完璧主義になって、適応という対応策を忘れてしまう。頭の中ではすごく完璧な状態ができ上っても、実際にやってみたら、現実の施工レベルではんどうしてもうまくいかない、ということが現場段階で初めて分かる。

・東京で地震が起こったら、少なくとも数か月は暮らせないと思っておいたほうがいい。ビル単位の故障に対応するということは絶対にできない。インフラが止まったら、何をやるにしても、全然ダメ。

・僕から見れば、ラオスとかブータンとかは世界最先進国。石油を一切使っていない、もしくは最底辺と言われる自給自足の国が先頭になる。ラオスに行って驚いたのは、山の上に登ると、関東平野ぐらいのかなり広い範囲が見渡せるんだけど、その土地には人工物が一つも見えない。虫取りにとっては理想郷。ラオスでは、米作りが風景を作っているところもある。山中のいたるところに湿地があって、谷の奥なんかでも一部を田んぼにしている。

・論じる人の常識が、断然、都会の常識に過ぎない。それは世界銀行の常識かもしれないが、それで世界を測られたら、たまらない。
・「最貧国」が世界の最先端になる
石油が高騰しても、何のダメージもない。ラオスは明らかに、まったくダメージを受けない国の一つ。しかも完全に持続可能な生活をしている。
・ほとんどの日本人にとって、電気が思う存分使えないとか、ガソリンがなくて車に乗れないとかいう状況は、想像したくないことでしょう。

・学生には、中国とかインドネシアとかに飛び出して仕事をしろよ、と言っています。建築業界、建築デザイナー双方にとっても途上国にしか可能性はない。

・運ばなきゃ成立しない商売は、流通コストが高くつく時代が来た時に一体どうなるのでしょうね。

・流通業は、コンビニも、宅配便も、日本ではオイルショックを脱した後にできた商売。次にオイルショックのような国際的な経済危機が訪れたら、それらがどうなるかわからない。流通依存というのは、現代社会のもろさそのもの。

・田舎で自給自足し、地産地消型で生きていく世界と、都市でできるだけ物流を効率化して生きていく世界の2つ。この両方を行ったり来たりして暮らす「参勤交代」を今から勧めている。

ベトナムで、「海側の街と山側の街」を、1年の半年置きに「参勤交代」している友人がいたことを思い出す。私自身は、これをベトナム(カントー、ニンビン、クイニョン)、インド(ムンバイ、リシケシュ、チェンナイ)、タイ(バンコク)、ラオス(ルアンプラバン)、カンボジア(プノンペン、バッタンバン、シェムリアップ)、日本(静岡、奄美大島)等で行いたいんだと思う。バンコクは、明らかに物流を効率化した場所で、特に航空網に関してはこのエリアで最強だと思う。街が近代化・西洋化・ショッピングモール化されすぎて住みたいとは思わないけれど、ヘアオイルとか顔パックとか、マッサージに関しては、この地に勝る場所は無い。

・自給自足や地産地消ができるところは、次の時代の先頭に立つ
・一見、突拍子もないアイデアで、もっと遊んでもいいと思うんですけどね。そういうユーモアとゆとりが日本には決定的に欠けています。

・デイヴィッド・ストローンの『地球最後のオイルショック』
1973年の第一次オイルショックが来るまで、経済学者はエネルギー消費と経済成長の関係に気が付いていなかったということ。文系と理系というように分断された状況の中で学問をやる日本の若い人は気の毒だ。自然科学としての検証がなければ、いくら経済学をやったって、それはただの言葉遊びだ。

・街歩きの楽しさって、ごちゃごちゃとした路地にちょっと入ってみたり、用事をすませた店の隣をついでに見たり、といったこと。東京の街や東京駅の新しい地下街なんて、極めて無機的な眺め。

・建築のクライアントも、ヒエラルキーを望む人と、フラットな関係を望む人とがいて、相手によってコミュニケーションの仕方が変わってくる。相手という人間を知って、相手に合ったやり方をするということが、僕の仕事でも一番大事。単なる建築の技術ではなくて、人間観察眼みたいなものが相当必要な職業。

・都市建設を設計するには、自分が経験した苦痛も含めて、身体感覚が絶対的に大事。もともと日本人って、足元の感覚がものすごく研ぎ澄まされている民族。西洋的な建築とまったく違う。畳がうまく敷けるように考えれば、建物に必要な秩序が自動的に生まれる。

・木造建築となると、CADとは全然違うOSで動いている。耐震強度偽装の話がでたときに、木造の方は構造計算ができる人間が実はいない。

・デザインセンスというのは、経済概念のそもの。お金をいくら使うかという問題はすべてエネルギー消費とも関連している

・東京の街並みの作られ方を考えたときに、高コストになっているんは文科系の理屈の中だけで、経済価値が決められているところ。例えば、「エコロジカル」とか「ロハス」とか謳って、実はすごく資源を浪費していることが多い。時の流行り言葉を大義名分に使って、本当は不合理なことをしている例は、都市ではいっぱいある。

・お金をかけなくても生まれる「にぎわい」というものは、他にいろいろあるはずなのに、「にぎわい創造」というビジネスになった途端、とても不自由なお金の使われ方が平気でなされてしまう。にぎわいも人間の生活も、脳の世界でしか考えられていない。

・東京は超高層開発でどんどん息苦しくなっている。でも、本当に息苦しくなれば、やっぱりそれを止めたいと思って、今度は土に触りたくなる人が出てくるだろうと、楽観的に思っている。

・地上ではなく、地下をみよう。逃げるところが無い平地に、避難塔みたいなものをボンボン作るんじゃなくて、地下にシェルターのような設備を作っておくのはどうでしょうか。

・「強度」と「絶対」が道を誤らせる
・人は暑くても寒くてもエネルギーを使っている。それは気温を一定にしたいから。そういう秩序を求めている。

タイのバンコクなんて、どこ行っても屋内がとても異常に寒い。インドとかベトナムは、ドミトリーの部屋内にも扇風機が置かれているところもあって、ホテルの部屋でも扇風機かセーリング・ファンか、エアコンかを客が選べるようになっているので、自分の体調管理に便利。

・都会で暮らしている人間は、頭で秩序を作り、秩序を要求しますが、それには必ず無秩序が伴うことを自覚した方がいい。

・高齢化社会をネガティブにとらえる意識については、若い人間を社会の中心と考える20世紀アメリカ型の社会システムが、日本にも組み入れられてしまったから。問題にすべきは、高齢化ではなくて、お年寄りでも集まれる場所があるかどうかってこと。日本人全体が、岡山の段々畑のおばあさんたちのように、自然環境の中で上手に暮らすという知恵を残していくべきだということ。

・コミュニティ形成って、いわゆるデベロッパーみたいな、既存の大きな主体と組んでもダメなんです。彼らは従来の利益率確保の構造でしか動けないから、プロジェクトを大きくしたがるので、期待しても無駄。不動産や建築の周辺には、足元のコミュニティから利益を作ろうという面白い動きが生まれている。例えば、都市近辺でシェアハウスという共同生活型アパートばっかり作っている不動産屋とか、新築ではなくリノベーションやリニューアルに力を入れているデベロッパーとか、要するに「だましだまし」をコンセプトにして、小さなお金を儲けよういう人たち。

・インドのムンバイが舞台になっている面白い小説『シャンタラム』
ムンバイで大企業が高層ビルを作ろうとすると、労働者が必要になるんだけど、インドではその労働者に企業が住居を提供しなきゃいけないんですよ。そこで仮設住宅を作るわけですが、インド人って家族ぐるみで現場に来るんですね。でかい高層ビルを5年かけて作るとすると、その隣はスラムに変わる。家族総出で、しかもそばに必ず掘っ立て小屋を建てる。ル・コルビュジェがインドのチャンディーガル州の州都となる新都市を作ったが、その脇にスラムができて、そっちの方が面白い。

・スラムが、都市計画や復興計画の核になるというのは、もっと議論されてもいい発想
・アメリカのポートランドは、街区のサイズを小さくしただけで、街の雰囲気が全然違ってくる。ちょっと柔らかさが出てきて、歩きたくなる。

・金持ちや偉い人は、昔から別荘を持っている。過疎や高齢化を問題視するなら、何でその習慣を一般化しないんだろう。別荘が特権でも何でもなくて、日本人全員が持つようになればいいと思う。でも、それを言うと、「ぜいたくだ」とか非難される。

日本は、交通費がとても高い。いざ、到着すると、車が無いと生活できない。完璧な交通網でなくても良いから、速さを追及しなくても良いから、移動手段がもっと身軽にできるようになると良い。

・全国一律の新幹線の駅みたいにしなくてもよくて、むしろ都市と過疎とをどうやって結んでいくか、ということ。ヒューマンスケールのまちづくりが誰にとっても快適なはずなのに、実際に作ろうとすると、どうして巨大な開発の方向に行くのか。ーお金の回り方。東京のゼネコンが関わる巨大な開発をでっちあげれば、効率的なお金の回し方ができる。(原発建設と同じ構図)

・戦後、ソビエト流を一番うまく真似してきたのが、日本の住宅公団。全国総合開発計画。

・今の若い人たちも一見、とてもスマートに見える。でも、建築に向いている人があんまりいなくなったなあ、と、大学で教えていてしみじみ感じています。

・日本は、短期の手続き主義に陥っちゃったんですよね。手続き主義って非常に安定していて、システムの中ではいいんですよ。手続き主義だけでやっていくと、道は見えていて歩けるんだけど、最終的にどこに行くかがわからなくなる。この道は安全確実に歩いていけますよ、ということは分かるんだけど、じゃあオレたちは、いったいどこに行くんだよ、という。

・あらかじめリスクを取らない人と、負う人とのメンタリティの違いは、すごく大きい。日本の、サラリーマン的建築家が圧倒的大多数を占めているという意味では、世界でも珍しい異常な国。ヨーロッパだと、大きな設計会社なんてそもそもなくて、基本は個人の名前で勝負するアトリエ。そのアトリエが、工業建築から文化施設まで何でもコンペで競って、仕事を手に入れる。

・だから鎌倉も最近どんどん住みにくくなってきていてね。生活者の自分が快適に思える街ではなく、サラリーマンとしての自分の地位が保たれる街が日本全国どこにでもできてしまっている。

・アメリカの建築士法では、設計事務所は必ず個人名をつけなきゃいけないと決められている。日本だと逆に、個人の名前が付いている事務所はむしろ怪しげだという雰囲気になる。

・都市にいるということは、秩序と整理の中にいることだから、そこから外れる時間を作ることが必要。サラリーマンがみんなサバティカル(長期休暇)を持てばいい。とりあえず、その期間は個人で活動する時間にあてる。ボランティアでもいいし、田舎に行って小説を書いたっていいわけですよ。

・高いところから評論家的に復興を論じるのではなく、まず、休みを長く取って、都市を離れて現地に住めばいい。何らかの形で、サバティカルのような時間を日常化しないといけない。家庭がある人はそう簡単にはいかないかもしれませんが、年に数か月は別な暮らしをするべき。

・人を変えて、考え方を変えてもらわないと、社会だって変わらない。そういうことを意識しないから、津波のような自然災害で壊れて、やっとこさ変わらざるを得ないという悲劇的な状況。

・場所を移すということは、人間同士のコミュニケーションにおいても、とても大事

・複数の生活拠点を持つことは、世界中、文化によっては当たり前。ロシアの「ダーチャ」と呼ばれる別荘は、庶民のもの。世界の中でも、日本人は異常に一つの場所に張り付いている人たち。天地願望のフットワークから言うと、女性の方がフレキシブル。
・旅行することが仕事です。もっと正確に言うと、旅行することで、日本の常識を壊すことが仕事です。

・養老氏:住む場所探しでの条件はただ一つ「一年中、虫が取れるところに住みたい」それさえ満たされていれば、どこでもいい。コスタリカ、ラオス、それからマレー半島のキャメロン・ハイランドなんて理想だね。

・日本に馴染めない人は、どんどん外へ出ていくようになればいい。日本という土地を上手にマネージメントしながら、外にもどんどん出ていけばいい。

・まず最初に、住むところに「困る」ことが先。人生の中で一度や二度は、住むことに困ればいいんです。で、自分で何とかすればいい。これからは自分が住処に選んだ場所が、一種の自己表現になっていく時代だと思います。

・僕ば場所を選ぶというより、人生の中で自分と縁のできた人たちと住みたいと思いますね。生きていれば、縁のできる人たちって、必ず出てきます。それは、日本人に限らず、中国人でも、タイ人でも。その意味で、これだけ「脱走」できる場所が増えた今の状況を、日本人はラッキーととらえた方がいいですね。

・日本人が固定された一つの住居観にとらわれている限り、面白い住み方はできないし、震災復興もおぼつかない。

あとがき(by隈研吾氏)

現場主義者はまず肉体を重要視する。強靭な肉体を持っていなければ、現場という過酷な場所を生き抜くことは絶対にできないからである。
・養老先生の思想の根幹もまた、肉体主義である。肉体をおろそかにしていると、脳ばかりが肥大して、ろくなことを考えなくなるというのが、養老哲学の中心思想である。都市という甘やかされた環境にいると、肉体がふやけてしまって、脳ばかりが活性化した不自然な状態に陥って、まともなことを考えられなくなる、と養老先生は主張する。

・日本にいて、他人からどう言われるかを気にしながら、建築の設計をし続けたいとは思わない。

・大きな災害に出会ったとき、人間の対応は極端に二分される。一つはユートピア主義であり、一つは現場主義である。もうこんなひどい目にあうのはこりごりだ。どんな災害が来ても耐えうるような理想的都市、建築を作ろう、というのが、ユートピア主義者の基本的な構えである。もう一つの反応は現場主義である。「だましだまし」である。災害の圧倒的なパワーを目の当たりにして、これはとても人間の微弱な力で太刀打ちできる相手ではないと観念する立場である。しかし、何もせずに死を待つというわけではなく、しっかりと観念しながら、しかも自分たちができることは何かを必死に探るのが現場主義なのである。

京都大学総長:山極寿一氏
「住まいを考えること」

・いつか自分の家を建て、車を持つことを目標に、戦後の日本人は働いた。「夢のマイホーム幻想」が朽ち果てた21世紀に、我々はどう住まうべきだろうか。

・生き延びればそれでいい。ある程度呑気に構え、最悪な事態だけは免れるよう備える暮らし方。

・家のなかでの家族とのコミュニケーション、一歩外に出た時の共同体や世間における信頼関係、土地や自然との共生、ヒトとして、日本人として、身体感覚を伴う森の思想で住まいのありかたを見直すことは、これからの時代に必要なことではないだろうか。

この本で紹介されていた本
養老孟司『バカの壁』
隈研吾『負ける建築』
エドワード・ホール『かくれた次元』(The Hidden Dimension)

グレゴリー・デイビッド・ロバーツ『シャンタラム』(SHANTARAM)

この、『日本人はどう住まうべきか?』という本を本屋さんで見つけたとき、買おうか買うまいか、メルカリではいくらで売られているのか(笑)、電車の中で読み切りそうなページ数か、持ち運びしやすそうか、等、いろいろな考えが頭に浮かびながら、それでも、

「スラムのほうが断然面白い」

というある章のタイトルを見て、購入を決めた。自然発生的に出現する環境にいたほうが、自分自身も面白いのだ。それぞれの国のそれぞれの地域の良いとこどりをしながら、気候も重視しながら、参勤交代を続けるのだ。今日も、本を片手に。

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