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7000㎞離れたタミル語と日本語の旅路【本:日本語の起源、日本語の源流を求めて】

以前、インドで話される言語のうち、ヒンディー語とタミル語とマラヤラーム語を少しまとめていた。

今回は、タミル語が話される南インド、タミルナドゥ州在住の日本人の方に借りた、大野先生の本2冊『日本語の起源』『日本語の源流を求めて』を読んで、タミル語から見る日本語の起源について、歴史を振り返ってみたいと思う。

大野晋(1919 - 2008):言語学者。日本語のタミル語起源説やベストセラーとなった「日本語練習帳」などで知られる国語学界の第一人者。大野氏は言語を通じて「日本とは何か」という謎に挑み続けた。

「皆が普段使っている言葉がよくわかっているかどうかが、とても大事」

言葉を厳密にとらえようとする姿勢
これからの時代は自分をはっきり相手に伝えなくちゃ」


『日本語の起源』

日本語とは、どこに起源を持つ言葉なのか?
対応語と具体的な物の世界の比較、日常の生活習慣や精神の世界比較

大野先生:大正年代中期の東京下町の商家生れの人間

山の手と下町
山の手は、ヨーロッパの言葉を操って日本の進路をきめる仕事をする人々が住む場所。「理論」が貫いて存在している場所。
下町は、外国語に縁のない生活を営んでいる大衆の住む場所。二月の初午の稲荷さまの祭り、春の海苔採り、藤の花見、夏祭りの神輿、朝顔の花数え等、春夏秋冬の移ろいに適応し、四季を感じ分け、味わうことを軸にめぐっているように思えた。

狭い東京でさえ下町と山の手ではあれほど言葉も食べ物も生活感情も違っていた。万里離れたヨーロッパの言葉と生活と感情がたやすく自分のものになるはずはない。そんな、分かるはずのないヨーロッパを追いかけなくては生きていけない日本とは一体何なのか?どうして日本はヨーロッパを追いかけなくてはならないのか?1930年頃。

古代日本語の音韻に関する論文を書いて私が大学を卒業した時、世界大戦の中で日本は敗色につつまれていた。

1945年。ヨーロッパは、自分から日本に入って来た。

比較言語学が壁に当たって、問題の答えを求めあぐねているのを見て、考古学や人類学に手懸りを求めた。

「日本文化の成立史を考えるには、北方アジア大陸に根源を求めるだけでは足りない。南方に目を向けなくてはならない。」

2000年、3000年前を振り返る。日本語起源説
1.日本語万世ー系説
2.分離説:他の言語から、分離して日本語ができ、分かれた言語は今も世界に存在しているという説

アルタイ語属(トルコ語、モンゴル語)、朝鮮語、アイヌ語、マレーシア語、インドネシア語など様々な言語が、比較言語研究対象とされてきたが、結論が出ていない。

日本語(東京、宮古島)とタミル語
Map of the Dravidian languages in India, Pakistan, Afghanistan and Nepal

タミル語は、紀元前2世紀から紀元2世紀にわたる400年間の歌を集めたサンガムという歌集を持っている。それは2500首から成り、一首が長いものが多い。その全体の言語量は、日本の万葉集の4500首の持つ言語総量の数倍ある。紀元前2世紀という古い時代の言語の記録を確実に現在に伝えているのは、サンスクリット語、古典ギリシャ語、古代ヘブライ語などに準ずる古さ。文法構造は、朝鮮語、モンゴル語、トルコ語とおよそ同じで、言語学でいう膠着語(こうちゃくご)に属し、基本的に日本語と共通である。

子音と母音

ヒンディー語は、サンスクリット語系統の言語である。サンスクリット語は、インド・ヨーロッパ語族に属して、ヨーロッパ語の仲間だから、日本語との起源的な関係を求めても、そこに良い結果が得られるはずがない。が、ドラヴィダ語属の言語は違っていた。

イギリス人の宣教師コールドウェルは1856年に『ドラヴィダ語、すなわち南インドの言語族の比較文法』を公刊。その中で、すでにドラヴィダ語と日本語との同系性をすでに論じていた。日本人としては、芝氏が初めて1973年、1974年に『ドラヴィダ語と日本語』を発表。

南インドの現代語の中には、サンスクリット語系の単語が極めて多く混用されている。日本語が多数の漢語を混用しているのと同様で、タミル語でも同じ。

『ドラヴィダ語語源辞典』この辞書のおかげで、ドラヴィダ語研究が世界中に画期的に広まったといわれる。

マドラス大学のコタンダラマン教授を訪ねる
日本にはタミル語専門の言語学者がいるのかどうか知らなかった

タミル語の最古の文学サンガム
ジャフナ大学言語学科主任アルナサラム・サンムガダス教授と夫人アノンマニ・サンムガダス講師という2人のタミル人とは、10年以上共に研究を重ねる

タミル語の文法によって、日本語が理解できるようになる場面
日本語とタミル語の文法構造
1.名詞の後に助詞を使う
2.「雲は山を隠す」のように題目語ー目的語ー動詞の順に配列する
3.関係代名詞を持たないなど

五七五七七の韻律(和歌の形式)
サンガムの韻律

日本語とタミル語が関係を持っていたのはいつか?分離したのはいつか?

稲作文化の時系列
イネ(稲)、コメ(米)、モチ(餅)、タンボ(田んぼ)など

縄文時代には東日本の人口が西日本よりはるかに多かったのに、米の生産を早く始め、気候の上からその生産に有利だった西日本の人口や弥生時代に爆発的に殖えた(一般に、穀物の安定的供給が始まると、人口はひどく増大するという)。概して、西日本は東日本よりも100年あるいは200年以上早く稲作を広めていたらしい。

単語の由来を求めていくと、そのある物が日本に来た国、その物を日本に知らせた国を知ることができる
単語の由来を捜索すれば、その技術の輸出国がどこかは推知される。これは、言語の系統とは関係のない事実である。

言語からみた稲作・農耕
新年の豊作儀礼
1月15日の慣習:日本とタミルで行事だけの平行ではなく、祈りの言葉についても、タミル語ではPonkalo, Ponkalと呼び、日本ではFongara, Fongaととなえた。

マドラス博物館、ポンディチェリ博物館、マドラス大学考古学科、タミル州立考古学研究所、遺跡アリカメード、マイソール大学考古学科、ハイデラバード考古学研究所、州立マドラス博物館展示場、タミル大学など

H・S・ラマンナ著『南インドと東南アジアの巨石文化ーその比較研究』

P・パグパティ博士「南インドの巨石文化期の特徴は3つある。一つは表が赤、内側が黒色の土器。二つは鉄器。三つは土器にグラフィティがついていること」

生活の習慣、精神の世界
結婚慣習

嫁取り婚:女は男の家に嫁入りして、夫の家の人間になった。しかし、日本の嫁取り婚は室町時代以降のことであって、平安時代以前は女が男の家に取られてそこの家族となることは、宮廷等に限られており、一般には無かったらしい。奈良時代の結婚は、「妻問い婚」といわれるように、男っが夜になると女の家を訪れて結婚し、翌朝自分の家に帰って働くのが普通だったようである。サンガムの歌にも、妻問い婚を連想させる歌が多い。この慣習は、インド大陸のタミル州では消滅しており、ケララ州、スリランカ北部には、その慣習が続いている地域がある。

夕占(ゆふけ)
日本の古典にある占い。家の門前や家の近くの街路で夕方に行う占いである。恋人に会えるか、自分の運勢はどうなるかを知ろうとする。タミルでは、原語viricciで、viriはひらく、ということで神意をひらく意と思われる。タミルでは、愛人の動静、戦争の成り行きなどを占う。

ナマズと蛇
日本ではナマズが動くと地震になるという。タミルでは、蛇が動くと大地が揺れるといった(Kanta: Kayamuka. 46)

恥(ハヂ)
室町時代という戦乱期から江戸時代に入るころ、武士たちが最も大切にしたものは名誉であった。不名誉。これは、社会生活の上で重要な位置を占める概念だった。タミル語では、vantu(低い卑しい行為)がある。

漢語の役割
1.外交上の技術的な道具
2.仏教と儒教の導入
3.儒教の思想の伝来

日本人の世界観、論理、行動の原理など、精神の世界の軸となった言葉の多くは、漢字による漢語である。戦前ならば「忠」「孝」、「義理」「人情」、さらにさかのぼれば、「極楽」「地獄」など。世界認識あるいは行動の原理を言語化した言葉は多く漢字である。日本に漢字・漢文が伝来して、それを消化した最初の日本人は、国として中国との交渉を文書によって行えるようになろうとした王族であっただろう。当時の東アジアの文明の代表者だった中国と国家的な交際をするために、王族は国家の代表者として漢文を読解し、みずから作文をして、交流を達成しようとした。貴族・役人は競って漢文を学んだ。しかし、漢字が日本で果たした本当に重要な役割は、外交上の技術的な道具というよりも、漢字を媒体として日本に仏教と儒教を導入したことにあった。仏教ははじめは、国家鎮護のための呪法として取り入れられたが、やがては民衆が救済をうける浄土が存在するという世界観を人々に教え生きるこの世の苦しみから人間を解放するためのするためのものとなった。当初、宮廷は膨大な国家予算を投じて仏閣の建立につとめ、多くの僧侶を養成したが、平安時代以降に至って仏教は次第に民衆の生活に根をおろすようになった。日本の仏教はすべて輸入された漢字の経典の読誦を通して学習された。また、儒教の思想を日本人に伝えた。儒教は中世以降の日本人の倫理思想の秩序づけに事に大きな役割を果たした。

基層言語
原語の歴史を見ていく上では「基層言語」(substratum)を考える必要がある。ある地域に、一つの言語が使われていたとする。そこに別の言語が入って来る。それは多くは文明的に、あるいは軍事的に強い集団の言語である。受け入れ側の人々は生活の利益のためにその新しい言語を覚えて行き、何世代かの間にはやがて以前の古い言語を忘れて新しい言語に同化していくことがある。しかし、以前の古い言語が持っていた音韻の特徴、造語法、あるいは文法形式の一部分などがすべて消え去ることはなく、それらが新しい言語体系の中に生き残っていくことがある。その場合、以前の言語を「基層言語」という。

基層言語の実例を求めると、フランス語の成立におけるケルト語と俗ラテン語との関係をあげることができるように思われる。フランス語を使う地方には、以前はケルト語が広まっていた。そこにラテン文化が進出してきた。ラテン文化が地域的に広まるにあたっては、まず町が築かれ、人々が集まり、そこに行政機関や学校教育にラテン語がつかわれ、その地域は文明化された。「文明」とはcivilizationの訳語であるが、civilとは「市民の」ということであり、civilizationとは「市民化」である。文明とはまさしく「都市の市民と化すること」によって展開してきたのだった。宗教儀式における司教の言葉や、学校の教師の言葉は価値あるものと受け取られ、人々はそれをあがめ、それを学ぼうとする。

人々は、ラテン語を覚えることが、よりよい日常生活に近づくのに便利で役立つので、耳からそれを学んで、それを使う。ラテン文化を受け入れるために、次第に俗ラテン語の表現が社会的に広まっていき一般的となり、相対的にケルト語は力が弱くなった。

フランスの地の人々は、ケルト語を基礎原語としてラテン文化を受け入れるとともに、俗ラテン語を受け入れ、それを模倣しながら、俗ラテン語の発音については、自分たちがそれ以前に身に着けていた体系に引きつけた。

ケルト語の分布

細かい部分については、いろいろ問題があり、それについての学者の見解はさまざま異なっているが、全体としては当時、軍事、技術、芸術、そして精神生活に強い力を持っていたラテン文化が広まるにつれて俗ラテン語がいきわたり、語彙においても文法においても、基層のケルト語に代って行って、そこにフランス語が成立したというおよその見通しは肯定されるものであるらしい。

レベッカ・ボズナー著『ロマンス語入門』1982年、39ページ以下

日本とタミルの間には、「平行事象」が多く合った。同時代に見出されるこの平行は、人間生活の根源にかかわるものについてである。タミル語と日本語の対応語は約500語。そして重要なのは、その対応語が質的にどんな役割を果たしているか。ヤマトコトバ(日本人の美意識、論理意識の根底に関わる言語)がタミル語と対応する。南インドのタミル語と共にあった文明のほうが古い。時間として、日本の縄文時代をさかのぼること何百年前、タミルの稲作文化は栄えていた。地域としては、北九州に、時間としては縄文晩期後半に、南インドのモノやコトが日本に到来し展開した。

しかし日本とタミル間、距離にして約7000㎞。
タミル人が来た証拠は?7000㎞の途中に、タミル語と関係する言語は?
朝鮮語もタミル語と約400語の対応語を持つ。

ターミナル
今後、弥生時代以降の古代日本の文明と言語を知ろうとする旅行者は、きっとこの駅のプラットフォームに立って、それぞれの行く手を選ぶことだろうと私は思う。

「文化」の中核は地域の自然条件に対する人間の対し方。「文明」の中核は人間の作り出した一般性のある、思考と技術にある。「文化」はよその地域への持ち運びは不可能だが、「文明」は運び出され、運び込まれる。

このように「文化」と「文明」とを区別することが、人間の歴史を明確に理解し認識する上で重要だと思う。

『日本語の源流を求めて』
こちらの本のほうが、大野先生が「タミル語にたどり着くまで」の生い立ちが詳しく書かれている。そして、大野先生は『広辞苑』『岩波古語辞典』『角川類語新辞典』などの編纂に携わった日本を代表する国語学者であることを知る。

古事記、日本書紀、万葉集、雪国、祭る、水田稲作、源氏物語・・・

本『古寺巡礼』を抱えて、大和の寺々をめぐり、仏教芸術に親しむのが高校生の間に流行っていた。私もその中の一人だった。

「日本とは何か」

「日本語について、これだけ用意していたから、インドの一つの言語、タミル語に遭遇したとき、両言語の対応の意味を直覚できたのだと思う。

18世紀の終わりごろ、インドのサンスクリット語とギリシア語、ラテン語とが文法上、非常に類似した体系を持ち、単語にも同一の形をしたものがあることが発見されて、人々を驚かせた。

フランス語はケルト語からラテン語の仲間へ

ピジン語、クレオール語
原語の分布が拡大していくには、まず卓越した文明や武力を持った言語があり、その言語が文明について拡がっていくのである

タミル語との遭遇
比較の条件の中で文法構造については、日本語はアルタイ語と共通点が多いと言われている。しかし、単語についてはモンゴル語と日本語の間には対応語はない。南インドには、使用人口が2億人以上に達するドラヴィダ語族といわれる言語がある。

テルグ語、ドラヴィダ語・・・丸善へ
インド大使館に電話して、「タミル語を話す人はいますか」と訊いた。

日本人は、理性的、論理的であるよりも、感覚的、感情的であるという。
日常的に気候が微妙に変化するという風土があり、やさしい、にこやか、かわいいという感覚を日本人は好む。それがマイナスの方に動くと、さびしい、かなしい等へと行く。

インド最古の文献『リグ・ヴェーダ』Rig Veda
古代インドの聖典であるヴェーダの1つ。サンスクリットの古形にあたるヴェーダ語で書かれている。全10巻で、1028篇の讃歌からなる。

Rig Verda

これを読んで、「生きている神話」と言われる、アイルランドにある、Trinity College Library所蔵の『ケルズの書』を思い出した。

The Book of Kells 

水田耕作、機織りも南インドから

スリランカに住むタミル人は、タミルの古い習慣を保っていることがある。インドのタミル社会は、チョーラ王朝(AD九世紀から十三世紀ごろまで)の間にアリアンの習俗を大幅に取り入れたので、古い生活慣習を失った点がある。結婚の方式についても、インド本土のタミル人社会では変わってしまったが、スリランカのタミル人は「サンガム」時代の妻問い婚の習慣を今もって守っている。

小正月の行事:豊作祈願の行事
1月15日の朝、小豆入りの甘いお粥を作って食べるのが仕来りだった。
マドラス、今のチェンナイでは、1月1日には何の正月らしきこともせず、普段のように皆働いていた。1月10日を過ぎると、街角で小さい太鼓などを売る出店が現れ、郵便局などに横断幕が張られ、それに大きな字でHappy Pongalと書いてあった。Pongalとは、豆入りの赤米のお粥であり、1月15日の新年そのものも意味した。

祭り(タミル語で、mat-u)
神:タミル語のko-manは、日本のカミとほとんど同一の性格を持っている
陶器や墓、記号分

タミルの文明は、陸路を経て日本に到来したものではなく、海路によって日本に到着したと想像する。もし陸路によったならば、途中にある数多くの異言語の間を通るうちに、単語の語形が影響を受ける為。

日本語の歩んだ道
1.日本では、縄文時代には西日本ではポリネシア語族の一つが使われていた。その単語はすべて母音終わりであった。
2.そこにタミル語が到来して、ヤマトコトバが作られてきた
3.ヤマトコトバは南へ、東へと、その高い文明と共に広まっていった
4.その頃、北海道、東北地方にはアイヌ語がいきわたっていただろうが、時の経過とともにヤマトコトバに同化され、アイヌ語は江戸時代には北海道、樺太、千島へと退いた。
5.タミル語の到来によってヤマトコトバが成立した後、朝鮮半島から高句麗語が入り、数詞の一部分と共に、他の単語やタミルと異なる文明を日本にもたらした。
6.その後、朝鮮半島を経て漢字が伝来した。その字音を学んで、次のように言語が変遷していった。推古音→呉音→漢音(中国の都が長安に移った時代)→唐音(遣唐使の派遣は途絶え、それ以降の宋、元、明の発音を、僧侶、商人が伝えたもの)
7.明治以降、日本が中国に先んじて欧米語を漢字に飜訳したので、その一部を中国が輸入。経済、社会、哲学、特許、方法、階級など。その数は1000に達するという。
8.江戸時代から、ポルトガル、オランダと交渉を生じ、カステラ、スポイトなどのヨーロッパ語が入って来た。
9.明治以降、西欧の文明の摂取に努めて以来、英独仏語が日本語に加わった。

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