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"春"という季節 [グッドミュージック・ステーション #27]

 春、春、春。あちらこちらに春が散らばっている。カラカラとコンクリートで冬を越えた枯れ葉が転がる。「防犯パトロール実施中!」、「痴漢に注意!」がなびく。春、春、春。私が全てを春にしている。

別れの春、出会いの春、桜というのは不思議なもので、この相反する二つの出来事、それに連なる感情の象徴として存在している。

 しかし、よくよく考えてみれば、桜を別れの象徴として捉えるのも、出会いの象徴として捉えるのも、結局はヒト、その個人である。ヒトは何か特徴的な出来事があった時、自分の身の回りに共に存在したものに、その思い出を託すわけであり、結局、事物は個人に帰属する。

 逆に、桜を見なければ想起しないものがあるのは、個人的な体験の中で、その個人が事物に帰属しているわけで、前段を加えれば事物と個人はその意味で相互関係にあることがわかる。

 だからこそ私は、私という個人が何かを見て、そこからどれだけ広く深くのコトを私の中で感じ取ることができるかということにこだわる。感受性こそが私を豊かにするものだと、そう考えている。

 誰もがそうであるとは全く思わない。それぞれがそれぞれの価値体系に従い取捨選択を繰り返していることも知っている。同じような価値体系を持っている人の背中を押し、違う価値体系から挫折した人の背中をさする形で、私の記事が存在できるなら、それ以上の喜びはない。

 独特な季節の挨拶から始まる今回のグッドミュージック・ステーションで紹介するのは、「never young beach」の『春を待って』です。どうぞ。

あなたに伝える言葉を いくつ揃えてみても
あなたを前にしたのなら それは意味がないみたい
そんな風になってしまう僕は情けがないぜ
調子はずれの スカタン野郎さ
never young beach 『春を待って』 Aメロ

 想像上の何かが、私の想像通りに作用することは、少なくとも私の経験上、実はほとんどない。想像上の何かは、それを想像する何かを見た時を再現しようとするが、その空気、匂い、温度までを忠実に再現することは、時期があけばあくほど出来なくなるものだ。だから、去年も見た桜を今年も見たいと花見に出かけるとき、私は多かれ少なかれ、事物が想像を超えていくことを期待している。

あなたに会う。それも同じでありたい。前回会った時と、今日会う時でお互いの変化を楽しみたい。とは言え、会う前に話したい事をなんとなく考えておいてしまうのも、人間であろう。こんな事があったと伝える言葉を揃えても、あなたを前にした時のその感情、あなたの変化に対する反応、「今」という楽しさを話したくなり、揃えた言葉は全て意味を失う。

 その変化を期待して「用意しない」という選択をできなかった自分、用意していたものを全て無意味にしてしまうあなた、なんと情けなく、喜ばしいコトであろうか。

人と人の関係となれば、その人との関係性を継続させたいと思えば思うほど、自己の変化が怖くなる。関係性の現状に満足していれば尚更だ。自己の変化が認識された時、同時にそれに対する他者の評価もつきまとう。必然的に関係性も変化し、それが望ましくない方向に向かう時もある。
だから、絵の具を水で伸ばしたように、変化を察されず、関係性が薄くなっていくような未来が待っているとわかっていても、長くその関係性が続くように見える選択をしてしまう。でも、そんなの悲劇でしかないじゃないか。

 だからこそ私は、変化に対して寛容でありたいと思う。「前はこう言ってたじゃないか!」と思っても、それを言うのは違うだろうと思うようにしている。現在のその人と過去のその人を比べて一貫性がなくても、そこに確固たる理由があれば、それでいいじゃないかと思いたい。もし、どうしても許容できない変化があれば、その時点で失望するのではなく、はっきりと伝えて向き合いたい。

 そんな私は調子外れ(奇妙)なスカタン(マヌケ)野郎なのかもしれない。でもそれでもいいと思える。他者の変化に寛容であるという許しは、自分の変化に寛容であるという許しにもなる。私は「一貫性へのこだわり」が、感受性の深まりを邪魔してしまうことを恐れている。

春を待って 旅に出るわ
冬を越えたら 会いに行くわ
同曲、サビ

 この楽曲は、サウンド面は春の陽気を感じさせるような爽やかな明るいサウンドで作られている。一方で、歌詞を見ると一貫して"あなた"を賛美し、"僕"を下に置いている。主体である"僕"を下に置くわけだから、もの悲しい無力感漂う雰囲気になるのが自然な気もするが、この楽曲はそうではない。この歌詞を歌うリズムや声は、サウンド面に似てどこか陽気である。

 春という季節の相反性を含みつつ、"あなた"という存在が"僕"の春を希望に向かわせている。しかし、やはりその"あなた"を希望の象徴としているのは"僕"自身の感性であるということには無自覚である。そんな"僕"の純粋さにも魅力があると私は思う。

 そんな、魅力的で、無力で、美しい。そんな春を感じさせてくれるグッドミュージック。

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