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戦争を読む①/『ウクライナ戦争の200日』小泉悠/

 小泉悠は『ウクライナ戦争の200日』で対談した砂川文次(『小隊』で芥川賞。ロシア軍が北海道に侵略してきたという設定で書いた小説。面白い。)との会話で、ドストエフスキーをラノベだと言っている。そして『地下室の手記』をギャグ小説だと云っている。文春のネット放送でも、砂川文次との対談で、同じことを繰り返している。
 ボクの脳は、反射神経的に「そうかなぁ…」と反応する。でも「そうかなぁ…」を事実だてる知識も体験ももっていないので、そのまま感想をペンディングの状態で抱えている。
 劇団イキウメの『地下室の手記』(ドストエフスキー)の朗読劇を見た時に、ちょっとデリヘルを待つひきこもり男のようだなと、思ったことはある。だからドストエフスキーの中のロシア的なものは、日本人の心にフィットするのかもしれない。もっとも前川知大の演出は、現代日本に体験的に引っぱってくるから、それが原作のもっている感覚かどうかは分からない。 
 プーチンの戦争を維持させている根底力の1つに[ロシア的]なものがあるのを感じている。いくらプーチンが報道統制を引いてウクライナでの戦闘を隠ぺいしていても、それだけでロシア国民がプーチンを支持し続けるとは思われない。もともと、国の混乱よりは独裁者を…とか、命令されて動くような国民性があるとか…何か国民が持っている共意識がプーチンを支えているのではないかと思っている。
 ドストエフスキーやロシア文学から[それ]を読み取れるのではないか…というボクの仮説と、小泉の云う「ドストエフスキーはラノベ」とのギャップは大きい。ラノベに戦争継続の力はないからだ。
 小泉悠の戦況分析、軍事分析、ロシア分析は、ボクにとっては、キレのある思考のように感じる。そして現場認識度の高い、信頼がおけそうな論考のである。(もちろんそれが合っているか有効かの判断力は自分にはない)ただただ聞いて受けとめている。それでも、自分の感覚でつかむところを少しでももちたいと思っている。それがロシア文学からなのか、戦争の文献をたくさん読むことなのか、まだ摑めてはいない。
 戦争がはじまってからずっと、プライムニュース、報道1930、深層ニュースなどの報道番組を中心に、状況を見守っている。
 何度も書いているが、たまたま人形作家・中川多理の作品集『薔薇色の脚』の自己解説で、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の女』をあげていて、それを読んだこともあって、ロシア文学に惹かれたということもあって、ドストエフスキー、ゴーゴリー、そして「部屋」とか「地下室」とかのキーのイメージを介して、チェーホフの沼に足をとられることになった。刻々変化しているウクライナの戦場と、そこで気になる本——たとえば『超限戦』『地政学』『ハイブリッド戦』などを読んでいく一方で、ロシア文学を平行して読む200日が継続している。戦争がはじまって、200日、一年があっという間に流れていく。『ウクライナ戦争の200日』を読みながら、ニュースでは捉え切れなかった、そしてウクライナに配慮してそのときは、報道できなかったことを確認していく。
 
 さて、ウクライナで戦争があって、果たして日本の人たちの読むものは、変わったのだろうか? 戦争関連、ロシア関連…多くなってはいないだろうか。自分がそうだからといって、他人もそうだとは限らない。それでもサハリンとか、ロシア文学に注目が集まっているような気もする。そしてその中で思考も変化しているように感じる。
 自分の読書は、本能的に多方面に広がって、そこからチェーンをして続いていく。中には『歌日記』森鴎外というものもある。日露戦争で203高地攻めの時、軍医として従軍していた。脚気治療に保守的だったために何万人と云う脚気患者をだした。『タタール人の砂漠』も『闇の奥』も戦争従軍している作家の視点で書かれている。
 直木賞の『地図と拳』(小川哲)や芥川賞の『小隊』(砂川文次)も戦争ものだ。両者とも戦争ものと、軽く分類できる作品ではなく、文学としても優れている。一番の面白さは、戦争をどこから捉えているかの視点が明確に見えることで、『地図と拳』には地政学的な視線が生きていて、それがふっとそこに居る当事者の視点に切り替わって、戦闘に向うところが今までに無いユニークさだ。『小隊』と云えば、徹底して戦争の現場に立つ戦士の目と感覚とである。俯瞰が利かなくなる戦場での兵士の目が、如何にもリアルで、そこから破裂する肉体の匂いと血潮が、読むこちらに降りかかってくる。
 戦争で死ぬ感覚は、そして死に至る感覚は、なかなか記述されることはないが、『地図と拳』には、戦死する寸前までその人間が思考している記述がある。『小隊』には、もしかしたら死ぬかもしれない兵士の刻々の気持ちの変化が描かれる。ほんの少し前までは、戦争の俯瞰図が見えていたのに、戦闘がはじまると、まったく視野が狭くなって見えなくなる。
 体験がないので、想像もできないが、演劇で云えば演出家の側に立っていると、全体がもの凄く良く見えるし、見渡せる。こうしたら良いと云うことは比較的簡単に摑める。では、その目をもって演出席に坐るとどうなるか。プロの演出家は、見渡せる能力を含めて70%以上発揮できるだろう。それでも100%ではない。演出席では能力が落ちるのだ。素人のボクならどうなるか、脇で120%ぐらい見えていたものが、30%位の出力になる。突然、見えなくなるのだ。例は違い過ぎるが、現場というところで、地面に近く動くともっと全体は見えなくなる。
 ウクライナ戦争で、刻々、俯瞰的な情報や、地政学的、政治的、力学が語られ…ボクは、そこではじめて戦争には、戦争のメカニズムがあることを知るのである。それらの要素が複雑に絡まってところで、それでも戦争はどちらかが戦争を継続できなくなるまで続く。とか、勝ち負けがはっきりしたところでしか、停戦の交渉はできない。とか、それらは今までの戦争でそうだったと、小泉悠とともにニュースで戦争を分析する高橋杉雄が云う。納得のできる話だ。
 その中で、ロシア的なものという、曖昧な要素は、なかなか戦争解説に加味し難いものである。しかしながら、それが作用しているところも、高橋、小泉ともに認めている。ロシア的なものは、プーチンが時間をかけて変質させた可能性もある。自分に都合の良いように。そうなると文学から読み解くことはできない。ロシア文学からロシア的なものを抽出することは、今回の戦争の分析にさほど役にたたないかもしれない。
 しかしながら、思うのだ。小泉悠、高橋杉雄、そして東野篤子という解説陣が、根底に思っているのは、何があっても戦争の端緒はプーチンであり、プーチンが止めると云ったら明日にでも戦争は終わる、そのことを忘れずに、戦争が終える方向へ気持ちを持ち続け、アピールをするということだ。
 『地図と拳』の小川哲も『小隊』の砂川文次も、何故戦争が起きるのか、何故戦争は止まらないのか、止める方法はないのか…と、それを書く中で見いだせないかと強く思っている。そして戦争は今、こちらでも起きるかもしれないという危機感をもっている。起きた時の覚悟をもっているのか。でないと、短期間に日本は占領されなくなるかもしれないと、思っている。
 彼らは、フィクションとは云え、戦争という現実をリアルに見つめている。安易に戦争が終わる方法を提示することも、そのことのために事実を都合よく変えることもしない。戦争を分析している彼ら/彼女たちは、これは人ごとではないと思っている。あっと云う間に、事情は変わって、戦争は近くまで来ている。いや、むしろ日本も戦時下にあるのだと認識した方がよいと思っている。
 幸いなのは、戦争の情報が比較的正確に報道され、いろいろな視点でのアプローチがなされていることだ。読み続け、見続ければ、少しは認知力もあがってくるだろう。自分自身は、多視点を同時に受動するのがやや得意であるように思う。なので、多視点の情報、著作をこれまで以上に、よんでいきたいと思っている。それが今、辛うじて出来る、自分の役割だと考へる。

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