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AIに負けたくないなら目の前の人間をちゃんと見ろ

お客さんの前で新人を指導する店員は、その行動自体が非難されるべき接客であることに無自覚だ。
明らかにお客さんの耳に聞こえる距離で、私語を話す店員もしかり。
従業員が表に見えないところで食べ物にいたずらをするなんて言語道断である。
それらの行為に共通するのは、どちらもお客さんを人としてでなく、「お客さん」というレッテルとしかみていない点である。

飲食店を訪れるのは、食事をするためだということは分かっている。でも本当にそれだけなら、接客はいらない。食事を作るのも、お客さんに食事を出すのも、お会計も、全部機械がやればいい。
でも多くの飲食店は、人件費を負担しながらわざわざ人を雇って経営されている。なぜ私たちは生身の人間からの接客を求めるのだろう。

店員と私の信頼関係

まず、食事を提供する/されるという関係自体、本来であれば親しい間柄でないと成立しない。
違う文化圏から訪れたよそ者は、その土地の食べ物を食べて初めて仲間として受け入れられる。そこにはお互いの信頼が結ばれたという意味が隠れているからである。それくらい、食事は私たちの暮らしに密着している。
食物を口から体内に入れるというのは、時に命の危険さえ伴う。私たちが飲食店にわざわざ足を運んで食事できるのは、私たちとそのお店との信頼関係が保証されているからだ。
本来であれば自分、または家族で料理を作って食べるのが基本であるが、忙しい現代社会では毎日自炊なんて言ってられない。だが、赤の他人との間であってもそこに"通貨"という信頼の保証が交わされることで、私たちは安心して食事を提供してもらうことができるのだ。

でも、全部機械化してしまえば間違いが起こることはまずない。
なぜ私たちはこのご時世になっても、わざわざ人からの接客にこだわるのだろう。

人間である意味

その秘密は、機械にはできなくて人間だからできることに隠されていると思う。
その答えは、「こころ」ではないだろうか。
あまりにも自明すぎてついつい忘れがちな部分が、実はもっとも肝心なのではないだろうか、と一大学生の私は思う。

現在多くの飲食店の従業員は、本来の仕事が学業であるはずの学生だったり、家事が仕事であるはずのパートの人たちだったりする。その人たちにとっては、「働くこと=お金を稼ぐこと」であり、お店に奉仕している時間は自分のためだという目的に直結してしまっている。
何のためにお店が経営されているのか、何のために接客をしているのか、というそもそもの部分は、案外見過ごされがちなのではないだろうか。
安い賃金だし、そんなこといちいち考えて働いてなんかいられないよ、そんな声もあると思う。
でも、そんな多くの働く側の人間も実は気づいているのではないか。目の前の人間にただのお客だと扱われて、こっそり傷ついている自分に。

私たちは、みんな違う。そんなことは小学校の道徳の教科書なんかで何度も教わって分かりきっていることだ。分かっているなら実践すればいい。人をもてなすことの基本は、その人を見ることなのだから。
従業員とお客さんが関わる時間なんてほんの数秒かもしれない。もう目の前のこの人と交わることは2度とないかもしれない。そんなことよりお店を回すことを考えなきゃいけない。混雑しているので細かいことなんていちいち気を配っていられない。
だからといって、目の前のお客さんを蔑ろにするのは、本末転倒である。働く資格さえないと、私は思う。

まとめ

繁盛しているのは結構なことだ。だけど、いくら飲食店の本部や社長さんがすごいことを考えていても、お客さんと対面するのはその会社になんの義理もないバイトやパートであり、彼らに伝えないと意味がない。
傷つくくらいなら機械でいい。急速に発達しつつあるAIであれば、すぐに人間のパフォーマンスを越すだろうし、もはや代替可能であろう。でも、人件費を払ってでも人間の接客にこだわるのであれば、最低限の接客の意味、人間らしいこころを忘れないで欲しい。

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