主人公の口を塞いでいるのは誰か:映画『戦争と女の顔』感想

 『戦争と女の顔』を観てきました。ちょっと油断しているだけでロシア文化に携わる者として観るべき映画が積読のごとく溜まってしまう…… 映画は多くの演劇と違って最終日がかっちりと決まっていないので、つい後回しになる。(同様の理由で劇団四季の大規模公演も見逃しがち)


 ウクライナ侵攻開始以降に日本で上演されたロシアおよびウクライナ関連映画のなかでも例外的な作品だと思います。今まで公開された作品ではドンバスでの軍事衝突やナヴァーリヌイ毒殺未遂など、政府が市民を直接殺めた事例を題材として政府の暴虐性を暴いている。
 一方で『戦争と女の顔』ではロシア/ソ連史上の政治的な事件は描かれない。それどころか支配者の気配すら排除されている。プログラムでも指摘されているとおり、スターリンやレーニンの肖像画は1枚も登場しない。

 戦争の血生臭さも画面から取り払われている。舞台は1945年秋のレニングラードであるにもかかわらず、街の描写は今とそう変わりがない。食料や生活用品が不足しているようにも見えない。まるで戦争が無かったかのように。これは「戦争からいち早く離れたい、考えたくない」というレニングラード市民たちの集合的な無意識の象徴とも言えよう。

 直前まで戦争があったことを示すのは、イーヤのPTSDの発作とマーシャの怪我の後遺症である鼻血、そして軍病院に入院する男性軍人たちの身体的障害(全身付随・手足の欠損・顔の傷)のみである。
 イーヤの発作は体が硬直して過呼吸状態になるという他人から見ると静かなものである。マーシャの鼻血も頻繁に起きるだけで激しい出血ではない。身体障害を負った男たちもケロリとしている。

 このように彼らが負った「戦争の傷」は、全くセンセーショナルなものとして描かれていない。むしろ過剰なまでに問題が矮小化されているように見える。病院を訪問する党関係者や戦地を知らないレニングラード市民だけではない。従軍した当事者自身も同様であると感じた。
 彼らも「戦争からいち早く離れたい、考えたくない」のである。それゆえに彼らが戦場で何を経験したのかはマーシャのラストシーンを除いて誰も語ろうとしない。(イーヤはもともとPTSDの影響で口数が少ないけれども。)

 ポスターで主人公イーヤの口を塞いでいるのは誰なのか? 本作の原案である『戦争は女の顔をしていない』に書かれた大祖国戦争に関わる内容がソ連政府の異なるという理由でペレストロイカまで出版できなかったという背景を考えると、口を塞いでいたのはソヴィエトのイデオロギーように見える。実はそれだけではなかった。戦地での凄惨な記憶から逃れたいと思うイーヤ自身の心もまた彼女の口を塞いでいる。


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