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メモ リバタリアン ノージック

ノージック

Robert Nozick 1938-2002
ロールズ批判。マキシミン原理とそれに基づく、正義の二原理のみが人間の考え方ではないとして、唯一の最善の社会を否定する。リバタリアニズムの親玉的存在だ。

所有権-ロック所有権論

 人は、身体・生命・財産・自由の所有とその不可侵を権利として持つ(ロック流)。それらを用いて、人は自由に生き、多くの異なる原理に依る共同体が並立する。ノージックは、身体・財産といったものが、個人の不可侵なものであるとして、ロールズ、特に格差原理を批判する。つまり課税や拡張国家を批判する。

 ロックの所有権論を補足する。
 ロックにおける人間の自然状態=本姓は、人間が「自分自身の身体を所有している」ことである(=自己所有)。簡単に言えば、人間の最初の持ち物はその人のからだ、ということだ。
 そして、その身体(所有しているもの)を使って作ったものもまた、所有物となる。それは、人間があるものを取得・製作するのに、その身体あるいは所有物を用いることで、それは単なるものではなく、所有物や労働が介されることとなり、言わばものに労働が混合されるためである。簡単に言えば、人がその正当な所有物でなした労働の成果は、その人のものということだ。

権原理論―保有物の正義

 ノージックもロールズ同様、社会契約論的方法で権利や正義を導出する。ノージックが認める、最小国家での正義。人がものを正当に所有する条件としての正義。
 ただし、ノージックもまた「ロック的但し書き」(あるものがある人格によって所有される際、そのものが他者にも十分残っていることが、正当な所有の条件である)には従う。

獲得の正義:原始所得(誰にも所有されたことのないものを所有すること)した者に、そのものに対する権原(正当な資格)がある。
移転の正義:あるものへの権原を持つ者から、自由意志による贈与や交換でそのものを手に入れた者は、そのものへの権原を持つ。
匡正の正義:獲得物について、不正(上の2つ以外での所有)があった場合、不正の発生時に遡り、不正を匡正する(実際には損失を補填することになる)。

 獲得の正義は、ほぼロック所有論であり、移転の正義は、市場原理による交換である。フリードマンのようなネオリベは経済的事情から、小さな国家や市場原理を主張するが、ノージックは倫理的な理由から似た主張をする。

最小国家

 ロック的な各人の所有権を認める状態にあっても、争いや権利の侵害は起こりうる。そこで各人は、権利を守るべく「保護協会」を設立する。しかし複数あると、保護協会同士の対立や非効率な管理が考えられる。それらが合併し効率化が図られる内に、ある領域内で排他的にサービスを提供する「支配的保護協会」が登場する。「支配的保護協会」は領域内に防衛やチア案維持のために実力を独占すべく「超最小国家」になる。

 そこでは、サービス(犯罪からの保護など)の収受に対価が必要となる。しかし、サービスを望まない者がいるにも関わらず独占するため、その者が奪われた分を「賠償」をする必要が生じ(匡正の正義)、それを領域内の全員へのサービス提供で行う。その結果、領域内の全員にサービスを提供する「超最小国家」は「最小国家」となる。自然権から、「最小国家」が導出される。

 保護協会という所有権保護という出発点から、課税やそれに応じた公共サービスは提供されず、国家の役割は所有権の保障、つまり警察や軍事に限られる。

(保護協会や最小国家は、自由なものだが、それ故にロールズのような一定のかたちの制度や社会を強制されない。ノージックは、最小国家論からさらに踏み込み、各々異なる原理を持つ様々なコミュニティが並立すると言う。最小国家が強制しないルール——例えば規制や特定の信念(宗教)、が存在するコミュニティもあるかもしれない。人々は、各人の幸福観や目的に応じ、コミュニティを選択すればよく、ロールズ流のたった一つのかたち(ロールズは善の構想として多様性を認めたが、純粋な多様性ではノージックの方が多様だろう)ではなく、多様な理想を追い求めることができる。
 ただし、この議論は、多様であるが故に、人を受け入れないコミュニティも考えうり、人々は自由にコミュニティを選択できないことが考えられる。さらには、自由が故に、強大なコミュニティが支配的になり、多様性が失われることも考えられる)

高所得は個人の才能と努力か?

 以上のノージックの理論を基にすれば、所有物への正義が遂行されていればよいのであって、行為の結果を変更する格差原理は正義にもとるとされる。つまり、「才能」と「努力」の結果として得られたものは、全てその者のものとなる。他者への貢献は各人の自由意志に依る。

 ところで、「才能」と「努力」による利益が実現するのは、それを成立させる社会があるからではないか。その社会を個人の意思で作ることはできない。また、「才能」であっても、それを得ることに何らかの努力をすることはできず、偶然の産物ではないか。「才能」の偶然性と社会の前提から、他者への貢献にも使うべきではないだろうか。ロールズは「社会的協同論」からそのように主張する。