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断章:ヘイトスピーチと暴言と悪

ヘイトスピーチの定義の要件に、ヘイトの対象がマイノリティ・社会的弱者であるということは必要なのだろうか。

ヘイトスピーチの定義

 ヘイトスピーチの定義とは何だろうか。師岡康子『ヘイトスピーチとは何か』を参照すると、

またブライアン・レヴィンは、ヘイト・スピーチは、それ自体が「言葉の暴力であると同時に、物理的暴力を誘引する点で、単なる「表現」を超える危険性を有すると指摘ヘイト・スピーチと暴力の関係を、「人種的偏見、偏見による行為、差別、暴力行為、ジェノサイド」の五段階の「憎悪のピラミッド」で説明している。
 ヘイト・クライムもヘイト・スピーチもこの憎悪のピラミッドの中に位置づけられ、人種、民族、性などのマイノリティに対する差別に基づく攻撃を指している。
前掲書  p.40

以上のようにある。

 また、マイノリティの定義とは、

①一国においてその他の住民より数的に劣勢な集団で、②被支配的な立場にあり、③その構成員は当該国の国民であるが、④国民の残りの人たちと異なった民族的、宗教的または言語的特徴を有し、かつ⑤自己の文化、伝統、宗教または言語を保持することに対して、連帯意識を黙示的であるにせよ示しているもの、である。
前掲書p.41

 そして、「②が最も重要な要素とされ、(中略)例えば、日本における米兵は、②の要件を満たさないのでマイノリティとはいえず、米非難はヘイトスピーチにはあたらない」とされる(前掲書p.41)。なお、著者の師岡氏は、前述の点について次の記事で明確に示している。

ヘイトスピーチは許されず、差別的言動は許されるのか

 「ヘイトスピーチ」という言葉が生まれた文脈を考えれば、マイノリティを対象とするレイシズムの一環、という定義は誤りではない。

 しかし、右翼が使う論法、「韓国人は日本人への暴言や侮辱的発言をしても問題ないが、日本人が韓国人にそれをすればヘイトスピーチとはおかしいのではないか、だから我々も同じようにする」というものに対して、どのように応答するのか。当然、暴言を吐かれたからあるいは侮辱されたからといって、差別的行為をしてよいという正当性は導きだせない。だが、だからといって例えば韓国人による反日における侮辱的行為あるいは差別的言動は見過ごしてよいものなのか、あるいはそれはヘイトスピーチ同様に悪であるのではないのだろか。

 仮に、師岡氏の定義に従い、マイノリティを対象とすることがヘイトスピーチだとしても、米兵や日本人に対する差別的言動は正当化できないだろう。ヘイトスピーチの害悪として、精神的暴力とレイシズムの一形態を挙げるならば、米兵・日本人へのそれも対象となるだろう。ヘイトスピーチの定義を満たさずとも、別の悪となるのではないだろうか。

 つまり、ヘイトスピーチの定義としてマイノリティを対象とすることは、確かに、今ある例えば在日朝鮮人への、レイシズムを解消することとしては有意義なものである。しかし、より広範なものとしてみた、人類のレイシズムを考えるにあたって、ヘイトスピーチの定義にマイノリティを含めるならば、それは貧しいものとなる。対象が誰であろうと、差別的言動は許されない。当然のことではないだろうか。ところが、現在差別に興味関心のある人権派の方々は、そのようなことは考えていないのか、あるいはイデオローグな背景からか、マジョリティ・支配的存在へのヘイトを最早なきものとして扱っている。これでは、いつまでたっても互いに互いが差別する構造は解消されない(このように書くと、差別はなくならない、と冷笑的な発言をする浅はかな人間がいるが、そのような事実から、差別はなくさなくてよいという道徳的法則は導けだせない。あるいは、そこで単に絶望するのではなく、ある種の自然として、人間はそのようなものであると理解したうえで、対策をとるべきである)。

 明示的に語れば、現在ヘイトスピーチに反対する者は、イデオローグな背景を出ないのではないだろうか。つまり、あらゆる暴力や差別に反対するのではなく、そのイデオローグな背景の限りでの反対である。それ故に、マイノリティからマジョリティへの暴言や差別的言動には対応することができていないし、むしろそのような行為はイデオロギーと合致しないから無視までしているのだろう。対象が何であれ、差別的言動は許されないだろう。