====== ※経緯は前の記事をお読みください ====== 皆の願いが通じて夫の状態が回復傾向になった。 このままいけば薬が抜ける、そうすれば検査にいける。希望をみた。 そう言えば、夫が緊急な状態になってから、義理の両親とは同居状態になった。 と言うのも、いざと言う事態にも備えて帰るわけにも行かず、東京に留まることになったからである。 (帰れなくなった、のニュアンスに近い) 義理の両親に、弟と妹さん、私と子供。 長期戦になるかもしれないし、何が起こるかも分からない。
====== ※経緯は前の記事をお読みください ====== 発症から3日(手術後3日)たって、状態が少し落ち着いた。 友人達の声も届けたかいがあったのか、意識も呼吸も戻らないものの、少し脈が上がってきたのである。 ちなみに、この時点で、夫の病状は“不明”であった。なぜかと言うと“検査が出来ないから”である。 良く捉えれば、脈が回復してきてはいたが(昇圧剤を少し減らすことができたと言う意味)、依然として体勢を変えたり少し動いたらする度に脈が下がるような状態だったため、
====== ※経緯は前の記事をお読みください ====== 皆さんは、“家族という形”と言う表現を聞いて、ピンときますか? 私はピンときません出来た。今までは。 (なんとなくですが、“家族のカタチ”と言う表現は、子供がいる場合に成り立つものなのかな、と思ってます。なので、それを前提に読んでいただけたら。) よく芸能人が離婚を発表すると“新しい家族のカタチでスタートします”と言う表現をよく見ますよね。 その言葉を見て、“言いたいことはわかるけど、都合良く言ってるだけかな
====== ※経緯は前の記事をお読みください ====== どうやら、山場は越えたようだ。 機械に映る数値に少し改善の兆候がみえてきた。 少しでも良い報告に安堵したのを覚えている。 ------ 実は、山かもしれないと言われた日曜日の夜、“連絡する必要がある”と考えた人たちがいた。 それは、ポポ(※夫の仮名)の友人である。 “友人”という言葉でくくってしまうのは、少し違くて、小学校からの繋がりで10年以上オリジナルをやってるバンド仲間と言えば伝わるのか。。 (私は、バ
====== ※経緯は前の記事をお読みください ====== 手術が終わって2日後の夜、家族は全員近くのホテルに泊まることにした。もしかしたら、緊急呼び出しがあるかもしれないから、、、 いつもと違う空間ではよく寝れなかった。 (※そもそも事があってから落ち着いてなんて寝れないが。) だけど、普段と違う気分になれたので、少し気持ちが紛れた。 とにかく、呼び出しがあることはなく無事に朝になったことに安堵した。 だけど、私はメンタルもだけど体調もしんどくて胃腸の具合が悪く
====== ※経緯は前の記事をお読みください ====== 呼び出しがなかったことにほっとして、病院へ向かった。午前中だった思う。 長らく時が経ったように感じたが、まだことが起こって2日もたっていなかった、、 手術後2日が山だと言う話は少し聞いた気がするけど、その通り、色々繋がれてる管の数値は少々悪かったと思う。 ICUでは看護師が、私に凄く気を遣ってくれた。 メンタルは大丈夫か? 分からないとはあるか? やってあげたいことはあるか? 何でも言ってください、相談
====== ※経緯は前の記事をお読みください ====== 世界線が一変した次の日の朝。 一本の電話が来た。私が取り逃がしてしまい、妹さんが取った。 病院からだった。。。 病院からの電話と言っても大したことじゃない、そんなことを願った。けれど 『脳が再出血しているかもしれません、すぐ来てください』 緊急呼び出しだった。 すぐタクシーを捕まえて皆で病院へ向かった。 (なかなかタクシーが捕まらなくて焦ったことを覚えている、、) 病院のICUに向かい、先生の話を聞
====== ※経緯は前の記事をお読みください ====== とても長い夜だった・・・ 手術は24時を過ぎても終わる様子はなかった。 看護師さんも『まだ頭をとじると言う報告はないです。』とのこと。(頭を切っているので綴じる段階になってから1時間くらいはかかるとか、、) 長くなることは覚悟していたもののいつまで起きてるのかと言うくらい、長い。。 家族待合室のようなところに案内されて、そこで休んでて良いと言われた。 疲れていたし、お義父さんの年齢もあるし、そこで休むこ
====== ※経緯は前の記事をお読みください ====== 病院に着いた子供と私を待っていたのは、夫の兄弟と夫の沢山の友人達だった。沢山の人がいたものの家族が居なかったため、“脳出血を起こし救急車で運ばれて、緊急手術をしている”ということしか分からなかった。 少しすると看護師さんがきて簡単に状況を説明してくれた。 『18時頃xx駅あたりで倒れ、救急車で運ばれてきました。救急隊がついた頃はまだ意識があったそうですが、そこから急変し、病院に着いた時には意識はなく、20時頃
12月のとある日、少し不安になる夢を見た。 家族で家を売って引っ越しする夢。 でも引越し先は、これはこれでアリだね、なんて平和だったから、別に気にすることなんてないって、思った。 そんな日。 私は珍しく出社日だったから、子供と夫が起きる前に家を出て会社に向かった。 だから、まだ寝てる夫に『じゃぁ、いってくるねー』って言ったと思う。夫は寝ぼけていて、そのまままた寝ていた。これが、“いつも通り”の夫との最後の対面になるなんて、、 出社した私は、いつも通り忙しくて、17時頃
私の中の世界線が変わる前、私たちは、都会にありがちな忙しい共働き夫婦だった。。。 ************* 夫と私はIT企業で働くサラリーマンである。IT企業特有かもしれないが、技術の流れが早く吸収することが多い上に期限も厳しく、とにかく忙しい職種だ。 近年では大きな企業でも、今までの“終身雇用”が崩れてきて、給与は実力に比例するようになってきた。年金も期待出来ないかもしれないと思うと、自分の実力を上げるしかないと夫とはよく話している。。それに、大都会でそれなりに暮ら
“リーーーーーーーン、、、” モダンな“おりん”の音が鳴り響く。。。 都会にある小さい部屋には、昔ながらの大きな仏壇を置くようなスペースも無いし、北欧風を意識して取り入れた家具にも似合わなかった。なにより私たちは、まだ“仏壇”を意識するような年齢でもなく、本気の仏壇は物々しく感じた。 現代の部屋にも合うようにと、省スペースでありながら家具にも合う、おしゃれな仏具を取り入れたところ、弔問客からは必ず“使い方が分からない”と言われてしまう。。苦笑 ただ、毎日仏壇に間に合い、会
2024年1月、予想もしてないことが起こる。 夫は子供と私を残して、空へ旅立ったのだ。 たった今、文章を書いている今もまだ信じられない気持ちと募る寂しさと戦い、先の見えない不安を感じでいる。 この記録は、晴天の霹靂のごとく起こった突然でかつ深い悲しみから私がどう立ち直るのかを書いていくものである。 事前に言っておくが、ただ悲しくなることを書きたいわけではなく、“人生何があってもきっと大丈夫”だと、伝わると嬉しい。自分のことに重ねて考えてみても良いかもしれない、でも想像な