ぬま

関心領域は18世紀以降の近現代哲学、現象学、精神分析、臨床哲学です。 ここではレヴィナ…

ぬま

関心領域は18世紀以降の近現代哲学、現象学、精神分析、臨床哲学です。 ここではレヴィナスを中心に自由に哲学しています。また、哲学研究ノート、エッセイ、日記、詩などを通じて文体の可能性について実験もしています。BlueSkyアカウントは@pinoakkey.bsky.social

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  • レヴィナス『全体性と無限』を読む

    エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』の邦訳(藤岡訳)を読み、原文とともに注釈を付していきます。個人的な勉強用ノートとして活用しており、学術的な根拠はないのですが、みなさまの思索の一助になれば幸いです。

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デカルトとレヴィナスを並べて語る理由

以前、後期レヴィナスの〈近さ〉概念について考察した記事を書いたことがある。 『存在の彼方へ』で頻出する〈近さ〉は、ハイデガーに極まる近代的存在論への批判概念として、レヴィナスの哲学体系全体をつらぬいて在ることを拙いながらも示そうと努めた。 振り返って読んでみると、仔細に論じるべき大きなテーマがいくつも配置されており、結局何ひとつ深く語れずに、全体を外観するにとどまったという印象をもった。一つのテーマをもっと丁寧に論じる姿勢が必要だと思った。次回以降の課題にしたい。 とは

    • 研究が全然進まない理由

      まえがき いま現在、僕は社会人として働きながら、趣味で哲学研究を行っている。 素人が趣味で哲学研究をしているなどというと、研究職の方や研究職を目指す学生の方々に怒られてしまいそうではあるが、「勉強」と呼ぶよりも「研究」と呼ぶ方がシンプルにカッコいいし、自分の取り組みに一定の意義を与えられる気もするので、僭越ながらそう呼ばせていただきたい。 ちなみに、僕は大学で経済学を専攻しており、哲学は授業とゼミで少しばかり勉強した程度である。卒業後は独学で勉強しつづけた。大学院には行

      • レヴィナス『全体性と無限』を読む(6)ー 他者と出会う場としての客観性

        1.範囲 藤岡訳『全体性と無限』p.370 - p.376 第Ⅲ部 顔と外部性 B 顔と倫理 5 言語と客観性 2.解題 言語によって私と事物の関係は他者のもとに置かれ、「使用上の関係」から「理性的な関係」に移行する。「使用上の関係」とは、例えば、「ハンマーは釘を打ち付けるための道具である」というように、ある目的を果たすための手段として道具化され、そのうえで対象を私に都合の良いように変容してしまう(我有化する)、そのような関係である。これは、ハイデガーの道具連関を想起さ

        • perfect days

          分断された世界 同じ世界にいるけれど 同じ世界を生きていない 頬を伝う涙 僕らを別つ境界線 どこぞのシンデレラ? 白馬の王子様なんて不要さ 僕が僕の世界の王子なのだから 変わり映えのない日々でも ちいさなしあわせ 木漏れ日のゆらぎ 汗を流す銭湯 一杯の酎ハイ 寝る前の読書 明日は明日の風が吹く 明日のことなど気にしない いまを懸命に生きるだけ

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        • レヴィナス『全体性と無限』を読む
          6本

        記事

          レヴィナス『全体性と無限』を読む(5) ー 意味、言語、思考

          1.範囲 藤岡訳『全体性と無限』p.362 - p.370 第Ⅲ部 顔と外部性 B 顔と倫理 4 言説が意義を創設する Le discours instaure la signification 2.解釈 前回の解釈によれば、言語は形式的な私と他者(顔)の関係に真の意味での「始まり」をもたらす。デカルト的な無限とコギトの関係は「神秘的関係」と形容されていた。他方、顔との倫理的関係は、言語によって担保される非暴力の関係であり、理性的関係である。言語が理性的思考の条件である

          レヴィナス『全体性と無限』を読む(5) ー 意味、言語、思考

          レヴィナス『全体性と無限』を読む(4) ー「理性的教え」としての顔

          1.範囲 藤岡訳『全体性と無限』p.357 - p.362 第Ⅲ部 顔と外部性 B 顔と倫理 3 顔と理性 2.解釈 表出は顔の表出のことである。この表出は「知解可能な形態」、すなわち、全体は部分的な個の集合によって構成され、他方で、個はその集合である全体を構成する部分に還元される、そのような還元主義的な構造において現れるのではない。では一体どのようにして顔の表出は生起するのだろうか? 顔の表出は「知解可能な形態」であらわれるのではなく「自己確証」としてあらわれる。「

          レヴィナス『全体性と無限』を読む(4) ー「理性的教え」としての顔

          レヴィナス『全体性と無限』を読む(3) ー「殺人の不可能性」としての顔

          1.範囲 藤岡訳『全体性と無限』p.350 - p.356 第Ⅲ部 顔と外部性 B 顔と倫理 2 顔と倫理 2.解釈 私が殺したいと唯一望みうるのは「絶対的に自存する存在者」であり「他人」であり「顔」であるという。それは私を「無限に凌駕しており」、私の権能[ pouvoirs ]を麻痺させる。しかしながら、それが私を無限に凌駕するにしても、なぜ私が「殺したい」と望む「唯一の存在」として断言できるのだろうか? 実はこの引用のまえにその説明がなされているのだが、何度読んで

          レヴィナス『全体性と無限』を読む(3) ー「殺人の不可能性」としての顔

          僕らの朝

          甘ったるいバニラの香り タバコ混じりの吐息の熱 イヤホンから漏れるドラム 若いカップルの戯れあい 情報のウザさ 吐き気がする 僕らは僕らでなくなる 群衆のなかで モノと化す ぎゅうぎゅう詰めの貨物列車 ぐるぐるぐるぐる 回ってる 乗り継ぎに走る人々 息を切らして登る階段 一糸乱れぬマーチング 降りてく人は誰もいない 張り巡らされた広告の群れ スマホのスクリーンの向こう側 僕らは自由だ 何でもできる 僕らは消費者 何でも買える でも やりたいことって何だっけ? ほしいも

          僕らの朝

          レヴィナス『全体性と無限』を読む(2) ー デカルト的無限への回帰

          1.範囲 藤岡訳『全体性と無限』p.342 - p.349 第Ⅲ部 顔と外部性 B 顔と倫理 1 顔と無限 2.解釈 引用にたいしてメモを付すかたちで書いていく。(なお、ほとんど思いつきで書いており、公開にあたって推敲もしていないので、誤字脱字、雑な解釈等々あると思いますが、ご容赦いただけますと幸いです。) 無限としての顔について説明される。顔はまず「了解されないもの」として、私たちのまえに現前する。「了解」というのはハイデガーにおける「存在了解」を指していると思われ

          レヴィナス『全体性と無限』を読む(2) ー デカルト的無限への回帰

          夜桜

          ひとりベンチに座って イラつきながら 酒を呷る 仰ぎみた空 太った半月 お友だちは 遠く彼方 君は一人で光ってる 寂しさなんて微塵もない 月に照らされ 咲く桜 夜風に吹かれ 揺れる枝葉 夜風が凪いで まるで静止画 闇夜に灯る 眩い桃色 いつか消えゆく 刹那の桃色 ああ 僕だけの桜であれ 他の誰でもない 僕だけの桜であれ 消魂しい 救急車のサイレン 僕には関係ない 見知らぬ人の悲劇 今宵のひとりごと この寒さ この孤独 桜には関係ない 僕だけの悲劇

          こだま

          公園までの道すがら 不具の犬 動かぬ足を引きずりながら 惨めに歩かされている かわいそうに と僕は思う でも君にとっては当たり前 わけもなく泣きたくなる 夜更かししたせいかな? 疲れたからだがやけに重い 重いからだをたずさえて 足の赴くがままに やりたいことって何だろう? そんなのわかっているけれど 考えたらきっとつらくなる 今の生活はたのしいですか? 首をナナメにふるしかないの 僕はひとりベンチに座って よくわからない詩を書いている 幸せになるための努力 電動キック

          レヴィナス『全体性と無限』を読む(1)ー《感性的なもの》の超越論的現象学

          読んだ箇所 藤岡訳『全体性と無限』p.329 - p.342 第Ⅲ部 顔と外部性 A 顔と感性 メモ レヴィナスは、「顔」を語る前に「感性」について論じる。感性とは何か?感覚のことだが、それは享受と密接に結びついている。享受は「現実」をありのままに受け取る能力のことだと思われるが、この享受が感性ないし感覚を支えている。対象化の作用によって主観的な感性ないし感覚は抹消されてしまう。享受は対象化ではない。 カントの『純粋理性批判』は、主体の認識は物自体には決して到達できな

          レヴィナス『全体性と無限』を読む(1)ー《感性的なもの》の超越論的現象学

          2024年3月10日(日)

          9時半、起床。昨夜のお酒が残っている感じではないが、どことなく疲れがあった。回復に時間を要するのは加齢のせいなのか、それとも怠慢な生活習慣のせいなのか。いずれにしても、体力をつける必要性をひしひしと感じるのであった。 10時半、友人との『中動態の世界』読書会。お互いの日程があわず、3週間ぶりの開催となった。今回はアーレントが『精神の生活』において、「リベルム・アルビトリウム」ではなく「意志」概念を擁護する議論の方向性に著者が疑問を感じている、といった内容であった。 「リベ

          2024年3月10日(日)

          ずぼら旅日記(霞ヶ浦編)②

          8時起床。カーテンの隙間から朝日がさしこむ。天気は快晴だ。気温も昨日にくらべると高い。絶好のサイクリング日和。シャワーを浴びる。お湯の温度が安定せず、急に熱湯になったり冷水になったりするので、ひとりで朝から大騒ぎしていた。9時過ぎにチェックアウト。 ホテルから駅までの道。風俗街を通る。ひっそりと静まり返っている。かつての活気を思わせる店の派手な外観とは対照的な雰囲気で、どことなく無常感をおぼえる。 駅ビルのパン屋で朝食。大好物のきなこ揚げパンとカツサンド、コーヒー。店とい

          ずぼら旅日記(霞ヶ浦編)②

          ずぼら旅日記(霞ヶ浦編)①

          昨日、友人との会話で盛り上がって、つい飲みすぎてしまった。起きたら頭痛。そこまで飲んだ覚えはないのだが…、やはり疲れていたのかもしれない。午前中は布団の上でゴロゴロしながら、疲労回復にあてた。 昼飯を食べてひと眠りしてようやく回復。軽く支度をして家を出る。都心から電車で2時間弱。到着したのは茨城県にあるJR土浦駅。よくある地方の主要駅のひとつといった感じ。土浦といえば花火大会が有名だが、どうやらサイクリングでも有名らしい。 西口から出てホテルに向かう。駅周辺は整備されてい

          ずぼら旅日記(霞ヶ浦編)①

          【研究ノート】レヴィナスのデカルト解釈②

          1. 前回の内容 前回の記事で、私はレヴィナスとデカルトの関係を「無限」の概念を媒介させつつ示そうとした。そこで明らかになったのは、デカルトのコギトは、無限(神)の観念を主体に先行して受容することで成立している、ということだった。レヴィナスは、無限を直観するコギトのうちに「受動性なき受容性」《une réceptivité sans passivité》を見出したのであった。 2. コギトの問題点と可能性 レヴィナスは、デカルトがコギト以前に他者(無限なる神)を受容して

          【研究ノート】レヴィナスのデカルト解釈②