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言語から身体へ - デリダへの応答としての『存在の彼方へ』

先日、レヴィナス読解の2つの方向性のうち、「狂気」の領域について少し書かせていただいた。

今回は「言語」について書きたいと思う。

レヴィナスと「言語」の問題(のみならず、レヴィナスの思考全体)を考えるうえで欠かせないのは、やはりデリダであろう。デリダがレヴィナスを批判的に取り上げた論文「暴力と形而上学」(『エクリチュールと差異』収録)は、 レヴィナスの第二の主著である『存在の彼方へ』における思想的転換に少なからぬ影響を与えたと言われている。

レヴィナスはたしかに、ハイデガーに頂点を極めた西洋の存在論にたいして、一貫して批判的態度を示している。 レヴィナスはそれを、自我に決して包摂されることのない「絶対的他者性」において見出している。だが、デリダの批判というのは、その他者性が「言語」によって記述されるかぎり、他者を自己同一化する「暴力」に必然的に陥るのではないか?というものである。言語は、他者を自己同一性に還元する暴力を必然的に含むのである。つまり、レヴィナスの言説は「絶対的他者」を言語(という暴力)によって記述するかぎり、ハイデガー存在論を根底から批判する力ををもたず、そこから脱出したことにはならない。どこまでいっても他者は自己同一性に包摂されてしまい、絶対的他者の現前は原理的に不可能となる。この、あまりにもクリティカルな批判に対して、レヴィナスは何らかの応答を迫られたことだろう。そのような経緯を考慮すれば、『存在の彼方へ』は、デリダの批判へのひとつの応答として提示されたといったら過言だろうか。

さて、『存在の彼方へ』は、第一の主著である『全体性と無限』とは趣をかなり異にしている。 例えば、「他者」の位置付けが両者でまったく異なる。『全体性と無限』では、他者は外部性であった。自我が外部性である絶対的他者への「超越」によって、「言語」を媒介することによって倫理的関係が始まる。しかし、『存在の彼方へ』では、他者は自我の近くにいる「他人」であって、その「他人」が自我の内部に侵入することで、いいかえれば、自我の意識が「強迫」観念に苛まれるような状態においてこそ、倫理的関係が始まる。図式的にいえば、外部性としての他者から、内部性としての他者へと倫理の力点が移行したのである。

内在する他者は、自我に何を要請するのだろうか?自分自身への回帰。反省するという能動性はなく、絶対的な過去に属する他者を、自我よりもはるか手前で先行する他者の要請。反省は意識の能力であるから、反省以前の自己自身への回帰である。身体は、母胎で形成され、自我が自己意識を持つ前から自我に与えられている。自我でありつつも、自我の意識的統御を逸脱するのが身体である。

なぜレヴィナスは、外部性から内部性への他者への倫理の次元を移行したのだろうか?この移行は、デリダが指摘した哲学的言語の限界(言語ら、他者を自己同一化する暴力に陥らざるをえない)を引き受けたうえで、「別の仕方で」乗り越えようとするある種の試みなのではないかだろうか?

デリダの指摘にまともに応答するならば、もはや言語を放棄し、言語ならざるなにかを以て語るほかない。しかしながら、哲学という営みが言語に依拠する以上、それを捨て去ることは不可能である。デリダの批判は、それ以上もはやどうすることも叶わない、極限地帯へとレヴィナスを導いたに違いない。

そして、これはたいへん奇妙な言い方ではあるが、レヴィナスは言語の暴力を引き受けつつ、言語によらない言語のかたちを考えようとしたのではないかないだろうか?言語によらない言語のかたち。すなわちそれが「身体」なのではないか?『全体性と無限』では、言語的=倫理的関係は外部性である他者への超越であったが、デリダの批判を経て『存在の彼方へ』では、言語ならざる言語=身体によって新たな言語=存在とは別の仕方を提示しようとしたのではないか。内部性としての他者への超越は、自己の身体への超越、そして、同時にそれは言語の超越でもある。レヴィナスの言語を考えることは、実は身体を考えることなのではないだろうか。

後期レヴィナスの思考は、言語と身体をある同一の次元において捉えている。この意味で、レヴィナスはまさに反-デカルト的である。デカルトの心身二元論に依るならば、言語と身体はまったく別の実体として峻別されるから、直接的な相互作用は生まれえない(ただし、情念を介して精神と身体は間接的に影響しあう)。言語は精神・思考の属性であり、身体とはいかなる関係も持たないはずである。さらに、身体とそれから生み出されるあらゆる感覚は方法的懐疑によっていくらでも疑いえるものであり、真理を担う精神に対する二次的な実体として評価される。

だが、レヴィナスは逆に、一次的なものとしての身体から、言語を捉え直そうとしているかのようだ。身体は、精神の統御から常に逃れゆく他者性である。身体的モチーフは「皮膚」や「呼吸」といった言葉づかいに如実にあらわれている。皮膚は、自我と他者の接触面であるが、これは自我と他者との究極の近接性であると同時に、無限の隔たりをも示している。つまり、皮膚における自我と他者は、相互に不可侵の、極限の近接的な関係にある。この、自我と他者の身体的(皮膚的)関係は、コミュニケーションとしての言語に変容を促すような力を纏っていると考えられないだろうか。

身体的モチーフは、初期の『実存から実存者へ』にも見出せる。「疲労」や「倦怠感」は、自己保存の努力である「コナトゥス」の反動で必然的に現れる経験ともいえるかもしれない。消極的な響きを伴っているが、ここで示されているのは,これらはあくまで私たちのごく日常的な経験に根ざしており、血肉の通った実存者なら誰もが経験する普遍的経験であるということだ。私たちは日常的に、身体という他者とともにあり、そして、自己意識ではどうにもならない他者性を、身体を通じて痛いほどに経験している。

今後の課題としては、言語から身体という内在への移行が、言語の別の仕方での再検討を迫る契機と捉えたうえで、身体的経験としての言語とはいかなるかたちをとるのか(詩的エクリチュール?愛撫ないしエロス?触覚的コミュニケーション?)、そのような問題として考えていくことだろう。

散漫な書き方になってしまったが、以上が、言語と身体の問題について、現時点で私が考えている大まかな内容である。この課題はおそらくメルロ=ポンティにも繋がっていくようにも思われる。

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