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レヴィナスの「狂気」、フーコーの「精神疾患」

相変わらずレヴィナスを中心に色々と考えているが、最近、特に自分の中で重要度が増してきているのが「狂気」「言語」という2つの領域である。

まず「狂気」について。「狂気」とは何かと、強いて定義するならば、それは「正常から逸脱している精神状態」であるといえる。狂気を積極的に定義するのは難しい。というのも、狂気はつねに「正常」と比べられ、「正常ではないもの」として消極的に定義するほかないからだ。では、正常とはいかなる状態か。これもまた難しいが、あえていえば「合理的に判断できる精神状態」であると言える。

デカルト以来の近代哲学は、人間理性の正常/異常を「合理的であるかどうか」で決めてきたようにも思われる。合理的であるとは、要するに、何らかの目的を達成するのに適った行為を実現できれば、それは「合理的」と言われる。

例えば、売り上げを立てるという目的において、100円で仕入れた商品を150円で売って、その差額50円を売り上げとして計上するとか、そういう経済的合理性をイメージするとわかりやすいかもしれない。ここで、もし半額の50円で商品を売ったら、当然50円の損失になる。これは「売り上げを立てる」という目的に沿わない行為であるから、このケースにおいては「非合理的」だと判断される。となすると、「合理的であるかどうか」は同時に「合目的(目的に適っている)であるかどうか」も含んでいることになる。

以上のように考えるならば、人間理性が「正常(合理的)」か「異常(非合理的、狂気的)」であるかを決定するためには、人間の「目的」を想定しなければならない。しかしながら、人間に「目的」など存在するのだろうか?カントであれば、人間の目的は「世界市民的体制の構築」というだろう。ひじょうに18世紀的な、啓蒙主義的な発想である。しかし、サルトルならば「実存は本質に先立つ」として、自らの力で生きる意味を掴み取れというだろう。サルトルの思想は現代人のわれわれにも共感しやすいと思われる。

とにかく「目的」が明確に定められていなければ、合理か非合理か、正常か異常かを決定することはできない(とここでは一応結論づける)。したがって、現代哲学において人間の目的が定まっていない以上、狂気の何たるかを規定するのは不可能である。

そして、現代の哲学は、雑な言い方になるが、「正常」を反省し「異常」を肯定してきたように思われる。ラカン、フーコー、ドゥルーズ=ガタリなどの20世紀フランス哲学は特にその傾向が強いように思う。

そういう意味では、レヴィナスも20世紀フランスの雰囲気のなかで哲学し続けたといえるだろう。レヴィナスは「異常(狂気)」を肯定的な仕方で哲学に取り込み、近代哲学以来の合理主義を批判したうえで、新たな他者の倫理を確立したのであった。第二の主著である『存在の彼方へ』は、自我の内部ですでに含まれている自己解体の可能性(可傷性)、自己犠牲(贈与)的な他者への献身的態度(身代わり)、自己の内側に他者を受容する主体(同のなかの他)について、異様ともいえる言葉遣いで論じられている。これぞまさしく「狂気的」ではないだろうか。

このような異常性、狂気性の観点からレヴィナスを論じたものとして、個人的にもっとも参考になると思うのは、村上靖彦氏の『傷の哲学、レヴィナス』(河出書房新社、2023)である。本書は、レヴィナスの哲学を「精神疾患の哲学」として捉え直す画期的な論考である。レヴィナス(特に後期の『存在の彼方へ』)を学ぼうと考えている方には、ぜひ手に取って読んでいただきたい一冊である。

さて、私の関心は「精神疾患」と重なる部分は多分にあるにせよ、もう少し広い意味での「狂気」について考えることである。というのも「精神疾患」といってしまうと、狂気の肯定性を現代的な精神医学の枠組みのなかで制限してしまうような気がするからだ。

これはフーコーが『狂気の歴史』で述べていることだが、古典主義時代(17世紀頃)以前にも、いわゆる狂人(気違い、痴呆、放蕩、浮浪者、労働能力が低い者etc)と呼ばれる人々は存在したが、それでも社会的立場は保証されていた。ところが、古典主義時代以降(それは啓蒙主義思想の流行とも関連があるだろう)、狂人は社会秩序を撹乱する危険分子として「排除」「監禁」される対象となった。さらに、狂人の精神異常は、精神医学的な言説によって「治療」の対象となる。ここで起きているのは、つまり「システムへの包摂」である。精神疾患は精神医学的言説と(国家)権力の結託によって、治療の対象として医学的・生理学的に扱われ、既存の社会制度に取り込まれるのである。

かつて狂気というのは、排除、監禁あるいは治癒されるべき対象ではなく、その狂気性そのものによって、狂気としての自律性を保っていた。理性の「零度」でも「動物性」でもなく、数多ある人間理性の一様態としてその地位を保持していた。

しかし、時代の思考が、狂気の狂気性を道徳的な悪として捉え、「浄化」すべきだと判断した。医学的治療を通じて、労働力として生産プロセスに組み込み直すのである。精神疾患者にたいする措置が生産プロセスへの再配置だとすれば、狂気のうちに肯定的な意味を見出すことはもはや不可能となってしまう。なぜなら、それは、浄化されるべき悪だと考えられているからである。

フーコー的な立場をとれば、精神疾患という医学的診断は、医学=権力によるシステムへの包摂の証明であり、いわば「狂気の敗北」であるといえるかもしれない。狂気はその肯定的意義を失い、システム(全体性)へと回収されてしまう。私はこの点に、レヴィナスと「精神疾患」を結びつけることへの躓きを覚えた。したがって、私が今後レヴィナスについて考え続けるならば、より広い意味での「狂気」との関わりから思考する必要があると考えている。

次に「言語」についてであるが、すこし文章が長くなってしまったので、別の機会に譲ろうと思う。
※以下、2024/7/14追記

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