僕のやっていることは「趣味」なのか?
はじめに
僕はいま、週末に哲学書を読んで、そこから得たアイデアを文章として表現する活動に取り組んでいる。文体は基本的には論文調で、参考にした書籍は一応列挙するものの、先行研究の整理をしたり、脚注はつけたりといった、アカデミックな作法には則っていない。その意味で僕のテキストは(そもそも媒体がSNSなのだから当然)学術論文ではない。しいていえば、それは哲学風エッセイである。
このような表現活動を、一時期〈哲学研究〉と称することによってモチベーションを保とうとしたこともあった[1]。しかし、「研究」というアカデミックな方法と、僕自身の気質に適した方法(要するに、その時の気分に合わせて自由気ままに読書したり書いたりする)とは、どこか相容れない部分がある気がしてならないのだ。だから、そう簡単に〈哲学研究〉と自称してしまうと、どこか背伸びしているような気分に陥ってしまう。僕のやっていることは〈哲学研究〉ではなく、あくまで〈表現活動〉なのだ[2]。
以上のような問題と並行してなのだが、実は最近、この〈表現活動〉にたいするモヤモヤが膨らんできている。このモヤモヤを引き起こしたきっけかは次のとおりである。
第一に、ある友人に〈表現活動〉のことについて話した「それはいい趣味ですね!」と言われたことだった。正直、自分の取り組みが「趣味」と呼ばれるのはあまり好きではない。僕にとってそれは「趣味」というよりも、もっと自身の根源に関わる活動だという思いがある。プライド、というと嘲笑を買いそうで恥ずかしいのだが、おそらく、自分なりにある程度勉強してきたという自負があるのだと思う。とはいえ、他所からみれば、大学院生でも研究職でもない、そればかりか、哲学の学位さえもっていない一社会人が取り組むこのような活動は、「趣味」の範囲を超えないのかもしれない。しかし、「趣味」と呼ばれることにたいして抵抗感を覚えたのは紛れもない事実だった。なぜ「趣味」と呼ばれたくないのか?それは僕自身が「趣味」を軽視しているからなのだろうか…?
第二に、僕の書くものに一体どれほどの価値(ないし意義)があるのか?という疑念である。月に1本くらい哲学風のものを書いていて、幸いなことに、読んでくださる方がおり、あまつさえコメントを頂けることがある。個人的にかなりモチベーションになっているので、読んでくださる皆様には、本当に感謝しかない。しかし、文章はあくまで素人の私見であって、学術的にその妥当性を保証されたわけではない(査読付きではない)。それに、自分の考えだと思っていたことが、実は、どこかで見聞きした他者の意見で、それを自分の考えだと思い込んで言っているだけかもしれない、という疑念も拭いきれない。それが紛れもない剽窃であるのは言うまでもない。だからこそ、自分と他人の見解を厳密に区別するために、出典を明記しなければならない。当たり前の話である。僕は、いわば「書く人にとっての倫理」を疎かにしていないだろうか…?
僕の取り組みに何らかの意義はあるのか?所詮「趣味」なのだから、多少情報が不正確だとしても、自分が楽しいと思えればそれでいいのではないか?別の言い方をすれば、「趣味」という建前があるからこそ、好き勝手自由に言えるのであって、もしこれが研究という「仕事」だったら、おそらく続けることができなくなる。しかし他方で「趣味」と呼ばれることに対する抵抗感もある。僕のやっていることは「趣味」なのか?それとも別の何かなのか?そして、それを行う意義とは何なのか…?ここしばらく、そんなモヤモヤが続いている。
以上の問題を整理すると、次のような問いとして抽出できるだろう。
①〈哲学研究〉と〈表現活動〉の違いとは?
②〈表現活動〉の意義ないし価値とは?
③「趣味」とは何か?
以降の記事では、上の3つの問いにしたがって考察をすすめていく。このような切り口ですすめたら何か納得できるような答えが得られるのか、それはわからない。もっとシンプルに考えるとか、気にしないでおくとか、そういうやり過ごし方も当然あるだろう。だが、いったんはこの方向で進めていこうと思う。
※注
[1]本件については下記参照。
[2]この取り組みはいわゆる「在野研究」ともいいかえられそうだが、個人的に「在野研究」という言葉があまり好きではない。そもそも大学の外側を「在野」と呼ぶのも、ある種の大学中心主義(そんなものがあるかはわからないが)の表れではないだろうか。大学が一次的で、在野は二次的であるという印象を助長するように思われる。もし、大学という環境・制度・人間関係と無縁に研究する、という意味合いで用いるならば、「自由研究」という名称の方がその意をよく捉えていると個人的には思う。
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