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レヴィナスからフーコーへ

レヴィナス的主体の困難

以前こんな記事を書いたことがある。社会人になってから哲学を勉強しはじめたわけだが、その取り組みを「哲学研究」と呼称することによって、勉強のモチベーションにしていた。そこで僕が取り組んだのが、デカルトの〈無限〉概念とレヴィナスの〈顔〉概念の関係性についてである。

レヴィナスに寄せていた関心というは、西洋哲学において措定されてきた理性的主体を、レヴィナスは完全に転覆したうえで、まったく逆の、非理性的=精神疾患的主体の在り様を「倫理」にまで高めようとした点にある。この見解は、村上靖彦氏の『傷の哲学、レヴィナス』(2023)から着想を得ている。デカルトに始まる近代的自我は「理性的で冷静な成人の男性」を措定している。そこには、狂気も、熱情も、女性も、子供も含まれていない。レヴィナスが描き出した主体性は、近代的自我がいかに男性中心主義的に偏った主体モデルであるかを暴き立てた。村上は、このようなレヴィナス的主体の多様性のうちでも、特に「精神疾患」との関係を強調して論を進めていく。

精神疾患的な主体と他者の〈顔〉とはどのようにつながるのだろうか。木村敏の言葉を借りれば、メンタルヘルスに問題を抱える人というのは、自己と他者の〈あいだ〉が正常に保たれていないために、自己が他者に侵害されているような強迫観念に晒されている。他者の〈顔〉は私に対して応答を要求する。この〈顔〉の要求は私が判断する以前にすでに私に命令を下すために、主体は徹底的に受動的状態に置かれたうえで、しかもその自由は問いただされ制限される(正確に言うならば、他者の〈顔〉の倫理的審問による制約こそ自由であるとレヴィナスは考えている)。

近代的自我モデルに基づくならば、このような倫理的関係は「狂気」とさえ呼べるかもしれない。しかし、〈顔〉の命令が受容されるのは、まさに受動の極に置かれたこの「狂気」の主体だからである。つまり、〈顔〉の倫理が成立するためには、主体は徹底的に「狂気」でなければならないのだ。僕は、レヴィナス的な主体を考えていくうえで、この「受動性」を考慮しないわけにはいかなくなった。

レヴィナスの狂気的=受動的主体はどこにその着想を求められるだろうか。それが冒頭に掲げたデカルトの〈無限〉概念である。この〈無限〉=神の観念を無条件に受容する態度において、レヴィナスはコギトにおける根源的受容性を見出すのである。〈顔〉の倫理はこのような受動的=狂気的主体を想定することではじめて成立する。

一般に、コギト自体には狂気は想定されていないと言われている。というのも、その理性は万能たる神に由来するからだ。神的理性の支持があるからこそ、コギトは存在の第一原理としての資格を有する。もしコギトが狂気に晒されているとしても、それは理性の運用方法に誤りがあるのであって,理性の確実性を何ら毀損するものではない。理性は神のもとにその確実性を保証されている。 ただし、 このような理性が狂気と背中合わせであるのは、レヴィナスの視点からすれば言わずもがなである。

以上見てきたように、たしかにレヴィナスの〈顔〉の倫理は、伝統的な西洋的主体の解体可能性を示唆したという意味で、自己―他者に新しい地平をもたらしたといえる。

だが、もしレヴィナスの思考がデカルトの思考の範囲内に留まっているのだとしたら、どうだろうか。結局、〈顔〉は〈無限〉の読み替えにすぎず、〈神〉が〈他者〉が置き換わっただけのような印象を与えないだろうか。

僕は、ここに躓きを覚えないわけにはいかなかった。単なる読み替えと感じてしまうのは、自分の読み方が浅はかだから、その程度で止まってしまうのだと思った。もっと深く入り込めもうと固執していたような気もする。そして、その固執を生み出したのはほかでもない。レヴィナスに対する盲信である。レヴィナスはデカルトから連綿と続く近代的主体モデルの解体可能性を示唆しつつも、実際には、いまだデカルトと共犯関係にあるのではないだろうか。そういうわけで、僕はこの研究テーマを肯定的な方向ですすめるのに困難を感じるようになった。

『全体性と無限』という書物はデカルト以来の主体の超克を示唆してはいたが、実際その背後では、乗り越えるどころかむしろデカルト的主体の一層の強化に加担していた。僕はこの点を看過してレヴィナスを語ることはできないと感じるようになった。だが、レヴィナス自身がこの問題を強く意識していたのだろう。後期『存在の彼方へ』では、デリダからの批判を経由して、無限に分離していたはずの他者を、自己の内在へと導入するようになる。他者の自己への導入(というよりも侵入)という事態は、まさに〈同のなかの他〉の特異な主体概念が、明確に物語っているように思われる。そして、その主体は、みずからの統制からつねに逃れる他者を内に含むという意味において狂気であり、精神疾患的な様相を呈している。

僕がいま問題意識を感じているのは次の点である。すなわち、レヴィナスの精神疾患的主体が、ある種の倫理的主体として承認されるにしても、具体的な現実において、それがどの程度の有効性を発揮するのか?という点である。それは冒頭でも述べたとおり、近代の哲学がいかに男性中心主義的だったかを暴露し、多様な主体による言説の可能性を拓いたという意味で、十分にその社会的意義を達成されているようにも思われる。

だが本当にそれで十分だとだろうか?多様な主体の可能性が担保されるにしても、結局、彼女ら/彼らは、社会制度のもとに全面的に包摂され、行政の管理のもとに従順を余儀なくされているのではないか?特定のカテゴリーに分類されることで、そのカテゴリーが規定するコードに無自覚に服従するような事態に陥りはしないだろうか?その多様性とやらは、社会(権力)によって提示されたものにすぎず、私たちはそのなかから、ある一つの可能性を「選び取らされた」にすぎないのではないか。

このような主張を、形而上学的水準と経験的水準を混在させていると批判することは可能だろう。たしかに、レヴィナスの主体の開かれはあくまで形而上学的領域における「可能性」だろうし、そこに現実社会への適応を要求したところで、「それはお門違いである」と一蹴されてもおかしくはない。僕の問題意識は、その意味でナンセンスなものかもしれない。

しかし、ここで重要なのは、問題意識の妥当性・正当性というよりも、その問題意識がなぜ生まれたのか、その起源を探ることにあると思う(この時点で哲学研究と呼ぶにはだいぶ逸脱していることは重々理解している)。したがって、レヴィナス的=精神疾患的主体がもたらす主体の多様な開かれも、結局は社会制度に包括され、無自覚にその規範に服従する主体と化してしまうのではないか?という問題意識に基づいて、今後の思索を展開していく方向を支持したい。そこで参照したいのがフーコーの権力論である。

フーコーの権力論

レヴィナスからフーコーという流れは、突拍子もないように見える。だが、飛躍しているのを承知で、僕は両者を繋げて考えていきたい。レヴィナスの主体は、他者を我有化しない、すなわち、絶対的分離において関係するものであり、それは後期に至っても変わることはない。後期の主体は、他者の侵入という狂気的=精神疾患的な状況に置かれつつも、それは他者を我有化する暴力とはならない。他者の他者性を保持しつつ、主体の主体性を放棄しないかたちで内側に含むのである。

自己の統御をつねに逃れる他者を内に含むということは、主体はすでに「傷つきやすさ」を抱えていることでもある。傷つく可能性を潜在的に抱えた主体によって、従来とは異なる倫理の可能性が呈示される。しかし、上記の問題意識が訴えるのは次のようなことである。すなわち、主体の「傷つきやすさ」を通じて開かれた他者との回路(倫理)が、権力の戦略によって社会制度に包摂されてしまうのではないか。そのような環境に配置される主体が、真に倫理的主体としての効力を有するものといえるのだろうか…。

フーコーの権力に関する一連の言説を迂回することで、「傷つきやすさ」を抱えつつも、決して社会制度へ全面的な包摂に陥ることなく、いわば「抵抗の主体」として、レヴィナスが開いたオルタナティブな倫理を成就する糸口を見いだせるかもしれない。

今後の方針としては、あいかわらずレヴィナスを中心に置きつつ、その主体を取り巻く社会権力・環境との関係はフーコーに負うかたちにしたい。 レヴィナスのテキスト読解は引き続きおこなうとして、まずはフーコー関連を勉強していこうと思う。


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