見出し画像

予期せぬ事態にどのように反応するか

蹴りを入れられた。
しかも、全く見ず知らずの他人に。

といっても、私が持っていた
スーパーのカゴに向かっての
軽いものではあったのだが、
悪意を持った人に蹴りを入れ
られるというのは、相当に
久しぶりの体験であった。

元はと言えば、私が弁当のコーナー
の真ん前で、電話をしながら立って
いたのが原因。
体は大きいし、カゴも持っていれば
空のエコバッグも持っていて、
ちょっと選びたいなと思う人に
とっては確かに邪魔だったように
思う。

その男は、サングラスをかけ、
鍛えた腕を見せびらかすかの
ようなタンクトップと短パン
といういで立ち。
さもイライラした素振りで、
私の左右をウロウロとしていた。
しかし、避けようと思えば避ける
スペースは十分にあるだろうと
思っていたので、電話し続けて
いたところ、余程気に障ったので
あろう、私に向かって
「邪魔なんだよ」
と粘着質な声を向けて来たのだ。

「それは失礼」
ムカッと来る気持ちを抑えつつ、
確かに自分のマナーも悪いという
自覚があったので、一旦そこから
離れようと後ろを向いた直後に、
その蹴りが放たれたのである。
「何しやがる!」と内心思い、
すぐに振り返ったものの、男は
こちらを見ずに悠々と歩き去る
ところ、私もまだ電話の最中で
これ以上揉めるのも御免だった
ので、その場はそれで終わりと
なった。

家に帰り、冷静に振り返る。
この出来事が自分に教えようと
していることは何だろうか。

一つには、リスクマネジメントを
折に触れて見直し、常に精度を
高めていくことの重要性を思い
出せ!ということ。
日常生活のどこにリスクが潜んで
いるかは分からない。
例えば、自然災害のリスク、
新型コロナウィルスのような
パンデミックのリスク、そして
今回の私のように、少々エキセン
トリックな人物と偶然出くわして
何らかの危害を加えられるリスク。
まぁ、今回のものは発生確率が
相当低いはずだが、それでも
より適切な行動をとることで
そもそもその確率を低めること
は十分可能だったと言える。
私のマナー違反(売場を占拠して
電話をかけていた)さえなければ、
あのような輩を惹きつけることも
なかったのだろう。

もう一つは、現在お世話になって
いるEMSというスクールで学び中の
「肯定ファースト」
という価値観との絡みで、
今回のような「いちゃもん」に
近いと言える声掛けであっても、
その人にはその人なりの内在的
論理があるはずだから、一旦は
受け入れる、声掛け自体を一旦
肯定する、その必要性を否が上
にも意識させられたということ。

何でもかんでも肯定しなければ
ならない、というような考え方
は、「肯定原理主義」として
厳密に区別されるべきもの。
あくまでも、どんな人であれ
何らかの意図や目的を持ってその
行動に出ているはずなので、まず
はありのままにその存在を受け
止めること、その中身については
一切肯定も否定もせずに、ただ
ただ存在を肯定すること。
それが「肯定ファースト」の意味
するところであるというのが、
今のところの私の理解。

今回であれば、彼の威圧的な行動
に対して、私自身の都合を考える
のではなく、あくまでも彼がなぜ
そんな行動に出たのだろうか、
そこに思いを致すこと、その行動
には私には考えもつかないような
特別な事情が何かあるかもしれない
というところまで想像力を働かせる
こと。
もしかしたら、好きな人にフラれた
ばかりとか、就活の面接で落ちた
ばかりといった辛い事実の直後で
イライラしていたのかもしれない。

人は、それぞれの「真実」の中で
生きており、他人の「真実」を
伝え聞くことは出来ても実際に
体験することはない。
だからこそ、ついつい
「自分フィルター」
を通して物事を見てしまうわけ
だし、自然とそうなってしまう
ものなのだ。
そのフィルターが、目詰まりして
いるかもしれないし、透明ではなく
何かしら色が付いてしまっている
かもしれない。

「自分フィルター」を常に意識し、
目詰まりや変色に注意すること。
そして、「肯定ファースト」の
精神、『7つの習慣』風に言い換え
れば「刺激と反応の間にスペースを
必ず置くこと」、これを実践して
いくこと。

こういう内省の機会を与えてくれた
と思えば、「蹴られてよかった」と
解釈してよいのかもしれない。
いや、やっぱり勘弁かな。

己に磨きをかけるための投資に回させていただき、よりよい記事を創作し続けるべく精進致します。